礼拝でのお話

他人から見える自分

聖書の言葉

人の心をすべて造られた主は 彼らの業をことごとく見分けられる。

日本聖書協会 新共同訳 旧約聖書 詩編33編15節

 

わたしたちは日常的に他人の目を気にして生活しています。自分が他人からどう見られるかを考えながら生きているわけです。そして、できるだけ好ましい評価がされるようにと願いながら生きている人が多いのだと思います。ですから、できるだけ自分を良く見せようと努力しているのだと思います。けれども、その反面で、他人が見ていないときにはだらしなくなったり、みっともなくなったりしてしまうこともあるのではないでしょうか。誰も見ていないからちょっと悪いことをしてもかまわないと考えてしまう人もいるのではないでしょうか。でも、それで良いのでしょうか。そういう考え方は正しいのでしょうか。

それは、自分自身のあり方を他人の判断にまかせてしまうことだと思います。そして、そういうあり方はわたしには正しいとは思えないのです。「他人が見ているからきちんとしよう、見ていないときには多少だらしなくてもいいよね。」こういうのは、あまり良いことではないと思うのです。たとえ、他人がいなくても、その場その状況でふさわしい態度をとらなければならないと思うのです。見つからなければ良い、怒られなければいいというのは大人な考え方ではないのです。

「人の心をすべて造られた主は 彼らの業をことごとく見分けられる」と、今日読んだ詩編は語ります。他人の見ていないところにあったとしても、神さまの目がわたしたち人間に注がれていることを語っています。絶えずわたしたちは神からの視線を受けているということです。そうであるならば、神の前に恥ずかしくない自分自身でありたいと願うのです。自分のあり方を他人の目を基準にして決めていくのではない。自分自身が神の前に胸を張れるようなそんな生き方を目指したいのです。自分のあり方を自分自身で決めていけるようになりたいと思います。
(10月26日)

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