聖書の言葉

賢いおとめたちは答えた。「分けてあげるほどはありません。それより、店に行って自分の分を買って来なさい。」

日本聖書協会新共同訳聖書 新約聖書 マタイによる福音書25章9節

 

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2月25日まで韓国のピョンチャンで冬のオリンピックが開催されました。オリンピックの抱えている問題はさておき、多くの国の人々が参加し、また、それを観戦し応援した人々がいます。この中にもテレビで毎日観ていた人がいるでしょう。もちろん、受験勉強でそれでころではなかった人もいるでしょう。が、日本人選手がたくさん活躍し、メダルが予想以上に獲得できたことはニュースなどで知っていると思います。今回わたしが一番熱中してテレビ観戦したのはカーリングでした。予選リーグから観ていましたが、特に女子の準決勝の韓国戦と、3位決定戦のイギリス戦はシビレました。結果は、3位決定戦イギリス戦で劇的な勝利を収め、銅メダルをとることができたことはご存じの通りです。本当に素晴らしい試合でした。「手に汗握る」というのはこういうことだと思いました。
カーリングという競技は、「氷上のチェス」とも呼ばれています。簡単に言えば、自分たちのストーンを最終的に円の中心に近い場所においた方が得点できます。でも、当然相手もストーンを中心に近い場所において得点しようとを考えるわけです(ブランクエンドにした方が良いとかいう判断もありますが)。こうなったら、このようにしてと3つも4つも先を読んでいかなければならないし、思ったところにストーンを投げなければなりません。スイープする技術も大事です(先週、ある先生が、掃除の時間に一生懸命スイープしていた生徒がいたと教えてくれました。「掃除の時間に、カーリングしてた。おもしろかった」と言っていました)。
わたしはカーリングを観ていて思わせられたことがあります。これは、段取る競技なんだなあと思わせられたのです。スポーツは、速さを競う競技、美しさを競う競技、駆け引きを競う競技、様々です。もちろんそれぞれにおいて一応ゲームプランは考えるでしょう。その中で、カーリングは段取っていきます。たとえうまくいかないことがあったとしてもまた次を段取ります。段取り通りに行かないときには何とか修正して、再び段取ります。ちょっとしたミスがあったとしても、次の段取りを決め、ストーンを投げスイープし、自分たちの得点を取れるように力を尽くす。そうやっていく競技なんだなあと思わせられました。
このことはわたしたちの日常にもあてはまっていくことです。あるいは、人生にもあてはまると思います。これはわたし自身の経験から言うことです。わたしはこの学校に来て20年経ちます。こんなに長く続けられるとは思っていませんでした。生徒の皆さんや同僚の皆さんの支えがあってこそのことだと思っています。弘前に来るということは、20年前のわたしにとってはあまり望むことではなかったのです。当時のわたしは、もっと別な道が備えられていると考えていたのです。この20年苦しいことや辛いことや、涙を流すことは数限りなくありました。病気になったりもしました。でも、今わたしはこの学校に遣わされたことは自分にとって良かったのだと思っています。自分の思い描く人生の段取りではなかったけれど、それでも良かったのだと思っています。望むことが全て叶えられる段取り通りの人生ならば、苦労は少なかったかもしれませんし、涙を流すことも少なかったかもしれません。が、きっともっと傲慢な鼻持ちならない大人になってしまったことでしょう。苦労の分だけ、流した涙の分だけ、わたしは成長できたのだと思っています。
皆さんも、きっと同じでしょう。頑張ったのに結果が出ない、とても苦しい思いをすることもあっただろうと思います。きちんと努力した上で、頑張って上で、うまくいかなかったならば、その先を見据えることができます。結果を受けとめて、次にどうするか考え、段取り実行することができます。根拠のない自信は一番駄目です。いつも言ってきましたが、「何とかなる」と「何とかする」は全く違う言葉です。「何とかなる」は段取っていない言葉で、「何とかする」はたとえどういうことが起きたとしてもそれに対応するという言葉です。カーリング日本女子の「そだね」「いいね」と同じに受け取って下さい。彼女らは「何とかなる」の精神ではなく「何とかする」の精神で試合を進め勝利を収めたのだと思います。

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今日の聖書には「何とかなる」と考えていた人たちと、「何とかする」と考えていた人たちが登場しています。この物語は「十人のおとめ」と呼ばれているイエスが語ったたとえ話です。10人のおとめが婚礼を前にしていたとあります。婚礼、すなわち結婚式を前にしている状態です。だから、花婿がもう間もなくやって来るはずです。何故真夜中になるのかと考えるでしょう。が、携帯もインターネットも、まして電話さえない時代の話です。2000年前、イエスの生きていた当時において、真夜中にお客がやって来るということは珍しいことではなかったようです。決してマナー違反ではなかったということになります。そして、真夜中ですから、みんな眠気を感じ眠り込んでしまいます。花婿が来るのが遅れたのです。到着が真夜中になってしまったというのです。
悪いのは遅れてきた花婿のようにも思われます。しかし、《ともし火を持って、花婿を出迎えに出て行く。そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。》とあるので、花婿の問題ではなく迎える側のおとめ側の問題なのだと思います。《賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に壺に油を入れて持っていた。》といいます。段取っておくべきは油です。5人は油を準備していたけれども、5人は油を準備していないのです。準備していたか、準備してなかったか。ここが賢いか愚かなのかの分かれ目のようです。「何とかなる」と考えていた人たちと、「何とかする」と考えていた人たちの違いのようには思われませんか。「何とかなる」ではなく「何とかする」の精神の違いだとは考えられませんか。自分の思い描く段取りにはならない。だったらどうすれば良いのか。他人に助けを求めて《「油を分けてください。わたしたちの火は消えそうです。》」と言えばいいのか。「助けて、わたしも困っているの」と言えば、まわりの人たちは「よしオッケー」と助けてくれるのかということです。
イエスはこの物語において、自分の持っている分を分け与える姿勢をはっきり拒否しています。賢い5人のおとめたちは言います。《「分けてあげるほどはありません」》と。はっりと分かち合うことを拒絶しているのです。どうしてなのだろうと考えます。どうして《「分けてあげるほどはありません。店に行って買って来なさい」》とつれなくするのだろうと考えます。もし、わたしがその場にいて、「油を分けてください」とお願いされたなら、分けてあげたようにも思います。たとえ自分の持っている油が少なくなったとしても、分けてあげたのではないかと思うのです。イエスが目指す方向性は、自分が持っているものが少なくなったとしても分け合う、助け合いの精神だと思います。そういうイエスに憧れるからこそわたしは牧師を続けられるのだと思うのです。今そこに困っている人がいる。今そこに途方に暮れている人がいる。そうであるならば、できることは何かと考え、できることをする。それがイエスが福音書で示した道なのではないかと思うのです。
けれども、イエスははっきりと否定します。《「分けてあげるほどはありません」》と賢い5人のおとめに言わせるのです。《「店に行って自分たちの分を買ってきなさい」》と、自分たちで準備しなければならないことを教えるのです。が、他人が代わってやれないもの、かけがえないものを油にたとえているのだろうと考えざるを得ません。真夜中に、花婿が来るのを待ってともし火を掲げている花嫁たち。5人は賢く、5人は愚かだった花嫁たちです。賢さと愚かさの分かれ目は、ともし火を灯し続ける油があるかどうかということです。
他人に助けてもらおう、自分は「何とかなる」と考えたのでは駄目なわけです。段取って、自分で何とかしようとしなければならないのです。ですから、ここで言われている油とは人生を段取っていくための大切な何かなのだと思います。「分けてあげるほどはないです。自分で準備して下さい」と言わざるを得ない何かなのだと思います。大事だからこそ自分で準備し、誰かが代わってやることのできないもの。分けてはもらえないもの。イエスはわたしたちに自分自身で段取り、準備し、待っていることを教えているのです。

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わたしは、それを未来を信じて今やるべきをことに力を尽くそうとする姿勢なのではないかと考えているのです。自分自身の未来を拓いていく力と言っても良いかもしれません。それは、誰かが代わってやることのできないものだからです。わたしたち大人は、皆さんに対してアドバイスはします。「こうした方が良い」とか「こういう道もある」とかそういうことは教えます。でも、実際に人生という道を歩んでいくのは皆さん自身です。他人が準備してくれた道を歩くわけではなく、自分で考え選択し、段取り歩いて行かざるを得ないのです。その際に求められる姿勢は「何とかなる」ではなくて「何とかする」というものであることは言うまでもありません。繰り返しになりますが、「何とかなる」は一生懸命頑張った上で、精一杯努力した上で使って良い言葉です。何もやらないで「何とかなる」という姿勢で臨むのはとても危険です。結果的には「何ともならない」こと、むしろ「大変ひどいこと」「とても残念なこと」になる場合の方がずっと多いのです。根拠のない自信はわたしたちを正しい方向へ進ませる力にはならないのです。
花婿がやって来ることを10人のおとめは待っていました。しかし、到着が遅くなってしまう。物事が自分の思い描く予想通りになれば良いのですが、現実にはそうはいかないことはしばしばあります。だから、今やるべきことを、今やれることを惜しまずやらなければならないのです。何があっても良いようにとは言いません。が、今やれることをやらないでは「何とかなる」だからけの、その場しのぎでいい加減な、段取りのない人生となってしまうことをイエスは語るのです。婚礼が始まってしまって、「開けて下さい」と扉をたたいても、婚礼には参加させてもらえないはめになるのです。未来を信じて今やるべきをことに力を尽くそうとする姿勢、自分自身の未来を拓いていく力を自分で身につけなければならない。わたしたちに「目を覚ましていなさい」と呼びかけるイエスは、そのことを教えてくれているのではないかと考えるのです。
わたしたちは、その呼びかけに応える者でありたいと思います。備えて待つ。準備をする。目を覚ましている。やるべきことをやる。どれも簡単なことではありません。備えて待っていても、ハプニングは起きます。解決しなければならないことは山積みかもしれません。目を覚ましているときに起きるのは、良いニュースばかりではなく辛いニュースだったともします。それでも、わたしたちはイエスの呼びかけに応え、自分自身の人生を生き、未来を切り拓いていかなければなりません。誰かに代わってはもらなえないし、誰かに助けてもらうばかりでもいけないのです。油を自分で用意して、自分の人生を照らし、花婿を起きて待っていなければならないのです。
最後に、一つ詩を紹介して終わろうと思います。杉山平一(すぎやま へいいち)という詩人が書いた「いま」という題の詩です。
《もうおそい ということは / 人生にはないのだ / おくれて /  行列のうしろに立ったのに / ふと 気がつくと / うしろに もう行列が続いている / 終わりはいつも はじまりである / 人生にあるのは / いつも 今である / 今だ》   杉山 平一 詩集『希望』
あなたの高校生活は間もなく終わります。そして新しいはじまりを迎えます。高校時代は良かったと昔を振り返らず、今と未来を充実させて生きて下さい。今までの人生より、これからの人生の方がはるかに長い道のりです。苦労はこれからもするでしょうが、きっと何とかしていけるはずです。何とかなるではないですよ。どこに行こうとも、そこで何をするのかはあなた次第です。
さらに、あなたの人生は誰かに代わってはもらえないあなた自身のものです。あなた自身が自らの手で切り拓いていかなければなりません。3年前、あるいは6年前、あなたは神に選ばれ聖愛へと導かれました。そして、あなたをかけがえない存在として愛する神とわたしたちに育てられたのです。そのことを忘れず、新たなる今へと飛び出して行って下さい。(2月27日  高校卒業礼拝)