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お知らせ

礼拝でのお話

人を愛するイエスの姿

宗教主任 石垣 雅子

聖書の言葉

ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。

新約聖書 ルカによる福音書10章33-34節

I

イエス・キリストとはどんな人であったと思いますか?
おそらく多くの生徒の皆さんにとって、キリスト教や聖書、そしてイエス・キリストというのは聖愛に来てはじめて知ったものなのだろうと思います。実はわたし自身も皆さんくらいの年齢のときにはじめて知ったのです。そして、それらのことを知ったことがわたしの人生を大きく変えてしまいました。そういうことを勉強し、皆さんにキリスト教や聖書、そしてイエス・キリストのことを伝える仕事をするようになりました。そんなわたしではありますが、今でもずっとイエスってどんな人だったのだろうと考え続けています。イエスがどんな人か知りたいと思っています。そして、皆さんにもイエスってどんな人であったか考えて欲しいし、知って欲しいと願っています。
一体イエスのことを知るためにどうすればいいのでしょうか。それは、聖書を読むということです。残念ながらイエスは2000年も昔に日本から遠く離れたパレスチナというところで生きていてすでに死んでしまったので、会って話を聞いてみることはできません。テレビなどにも登場することはありません。そんなわけで、聖書というものが唯一彼を知る方法になるわけです。
そして、聖書を読んでみる限り、イエスにも色々な姿があったのだと気づかされます。穏和で柔和な優しい姿も見せています。けれども、その反面で厳しく激しい姿も見せています。おそらく当時の社会の中で軽蔑されたり差別されたりして弱い立場におかれていた人々には優しかったのだろうと思います。ファリサイ派や律法学者といった当時のエリートであり人々を教え導く立場にあった人々には怒った顔を見せてもいたのだろうと思います。というのは、ファリサイ派や律法学者たちが人々を教え導く立場にあったにもかかわらず、人々を差別し疎外していたからだろうと思うのです。ですから、誰が見るかによってイエスの姿というのは変わってくることでしょう。それはわたしたちにとっても同じことです。わたしが見ているイエスの姿と皆さんが見ているイエスの姿は必ずしも一致しているわけではないだろうと思います。

II

でも、今日わたしはイエスの一つの姿を紹介したいと考えています。それは、イエスは「困っている人を放ってはおけない人だった」という顔です。あるいは、愛を実践する人だったという顔です。先程読みました聖書の箇所は大変有名な箇所であって「善いサマリア人」と呼ばれるイエスが語った物語です。話の内容は読んでもらえばわかるのですが、簡単に紹介します。ひとりの旅人がエルサレムからエリコへ向かう旅の途中で追いはぎ(強盗)に襲われ瀕死の重傷を負います。道に転がってうなっていたわけです。そこをたまたま祭司が通っていったけれど、知らんぷりで通り過ぎていった。レビ人(下っ端の祭司)も通りかかったけれど、これまた知らんぷりで通り過ぎた。ところが、三人目に通りかかったサマリア人は倒れていた旅人を助けたというものです。イエスは「この三人のうち、誰が追いはぎに襲われた人の隣人になったか」と尋ねました。答えはおわかりですね。
わたしは、このサマリア人は何故倒れていた旅人を助けたのかということに注目しています。何故助けたのか。答えは聖書の中に書いてあります。「憐れに思って」という感情がサマリア人を動かしたのだということです。しかし、この「憐れ」というのは原典ギリシア語に忠実な訳ではありません。ギリシア語では「はらわたがちぎれる思いがして」というのです。「はらわた」がちぎれたらどうなるでしょう。経験はないのですがおそらくすごく痛いはずです。サマリア人は自分の「はらわた」がちぎれるくらいに痛いと思った。それくらいに倒れている旅人の痛みを自分でも感じたということです。
倒れている旅人をほったらかしにして通り過ぎていった二人は倒れている人の痛みを自分の痛みとすることはできませんでした。自分には関係ないと思ったのかもしれません。やっかいなことに巻き込まれたくないと考えたのかもしれません。めんどくさいことは嫌だと思ったのかもしれません。実際、人を助けるということは簡単なことではないはずです。ややこしくてめんどくさいことなはずです。

III

しかし、考えてみて下さい。もし、自分が半殺しの目にあって倒れている旅人であったとしたなら、と。どうして欲しいですか。わたしなら、やっぱり助けて欲しいと思います。急いで助けて欲しいと思います。
わたしは、倒れている人を助けたサマリア人とはイエス自身のことなのだと思います。イエスは、生涯を通して助けて欲しいと手をのばしていた人々を助けようとしたのだと思います。倒れている人の痛みを自分の痛みとして感じ、それに共感していったのだと思います。そして、実際に自分の手をのばして助け起こしていったのだと思います。そういう意味においてイエスは「困っている人を放ってはおけない人」であり、愛を実践する人だったと思うのです。
イエスはわたしたちに「行ってあなたも同じようにしなさい」と語りかけます。愛を実践しなさい、具体的な行為として人々を愛しなさいと語りかけておられるのです。今倒れている人に、今傷ついている人に、自分の手をさしのべて助け介抱する。そのようなことをあなた自身で行いなさいと命じているのです。

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