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お知らせ

礼拝でのお話

それでもだめなら

宗教主任 石垣 雅子

聖書の言葉

園長は答えた。「御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。
そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。」

新約聖書 ルカによる福音書13章8-9節

I

残念なことに、わたしたちは大人になるにつれて自分にできないことがあることを発見します。子どもの頃であれば、鉄棒の逆上がりができなかったり、かけっこでビリだったり、笛が上手にふけなかったり、分数の計算がどうしてもわからなかったりということがあるでしょう。その度ごとに親から「どうしてできないの」と叱られるわけです。あるいは、「良くできたね」とほめられるわけです。できる人は「良い子」、優等生と呼ばれ、できない人は「悪い子」、劣等生と呼ばれたりもします。できないということは悪いことであって、できるということが良いことであるという考え方を知らず知らずのうちに受けとめていくのです。
わたしたちはこの社会の中で「点数稼ぎレース」に参加させられています。大人も子どももです。一点でも多く点数を稼ぐことで自分の存在を誰にも否定されないようにして生きているのです。あるいはそのレースから決して脱落しないようにと自分自身を叱咤激励し走り続けているのです。今日食べる物がないとか爆弾が落ちてくるとかいう生命の危機に瀕しているわけではないのに、目に見えない何かにいつも脅かされています。これはとても大変なことです。

II

今日の聖書において、ぶどう園の持ち主が期待していたのは植えていたいちじくが実ることです。ただそれだけのことです。植えて三年もたてば実をつけても不思議ではないのに、いっこうにその気配がない。実のならないいちじくの木はどう考えてみても駄目な木です。怒った持ち主はぶどう園を管理している園丁に「もう三年もの間、このいちじくの木に実りを探しに来ているのに見つけたためしがない。だから切り倒せ」と命じるのです。しかしながら、園丁の答えはこういうものでした。「今年もそのままにさせておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみますから。」この園丁は結果だけが全てだとは思っていないようです。切り倒すのではなく、どうしても一年待ってみたいと言っているのですから。
この園丁は実のならないいちじくの木をあくまでも世話しようとすることで木に対する愛を示しています。園丁にとっては役立たずのどうでもいい木ではないのです。かけがえのない、この世にたった一本きりのいちじくなのです。たとえ実がならないにしても、そのことのために世話することが無駄になったとしても、園丁は持ち主に一年待って下さいと願い、丹精こめて世話しようとするのです。大事なのは実がなるかならないかという結果ではないのです。
わたしたちが他人とつきあうということもそういうことなのかもしれません。もしかすると徒労に終わってしまうかもしれない。期待が裏切られ続けるかもしれない。自分が思い描くようには生きてくれないかもしれない。それでも忍耐する。それでも見守り続ける。あくまでもありのままを受けとめ続ける。いつまでも待ち続ける。そういうことが本当に人を育てていくのかもしれないと思うことがあるのです。

III

考えてみると、この話の中の園丁の姿とはイエスその人のことを指しているのではないかと思うのです。そして、このいちじくの木とはもしかするとわたしたちひとりひとりなのかもしれません。わたしたちはできれば他人よりも一個でも多くの実を実らせたいと思って頑張って生きているのだと思います。しかし、思うように実をならせることができないでいます。だから、つらいのです。
イエスはそのようなわたしたちを愛をもって見守り続けているのではないかと考えるのです。たとえ実がならなくてもそのために切り倒してしまおうとするのではない。駄目かもしれない。徒労に終わるかもしれない。それでも世話し、待ち続けるのです。そしてまた、過度の期待をこめて、これができたら今度はこっちと要求し続けるのでもない。ただそれぞれのありのままの姿を受け入れ、それをそっと支え続け、励まし続けてくれているのではないでしょうか。
「それでも駄目なら切り倒して下さい」と園丁は言いました。しかし、イエスはたとえどんなに駄目でもわたしたちを切り倒してしまうことはないのです。役立たずだからいらないとか、もっとできる子になりなさいとは決して言わないのです。ただそこにいるだけでいい。イエスの愛を感じて生きていきなさいと語っておられるのです。立派になることを求めて生き、他者にもそれを求め、そのことの故に自分や他者を傷つけていくのではない。ただ、自分のむなしさや愚かさを知って、謙虚にイエスの愛を受けとめたいと願うのです。それでも駄目なわたしたちを、どこまで行っても駄目かもしれないわたしたちを、そのままで良いと愛して下さるイエスを今日知りたいと思うのです。

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