聖書の言葉

そこで、イエスは言われた。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を賛美するため戻って来た者はいないのか。」それから、イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」

日本聖書協会新共同訳 新約聖書 ルカによる福音書17章17-19節

 今世の中を一番にぎわせているニュースはコロナウイルスとそれによる新型肺炎であることは間違いありません。一体どういうかたちで終わっていくのか想像もつきません。が、とにかく早く収束してくれることを願うばかりです。生物の時間に教わったはずですが、ウイルスは生き物ではありません。タンパク質とRNAによって構成されています。すごく乱暴に言えば、ウイルスは宿主が必要です。人間など生き物にとりついて自分の仲間を増やそうとします。そして、ウイルスは人間の目には見えません。ウイルスを持った人がいて、その人が他の人にウイルスをうつしてしまっている。これを感染といいます。熱が出たり、咳が出たり、何かおかしいと自覚があって初めて気づくわけです。体力のある人の中には自覚すらない人もいるわけです。この件に関しては、ちょっとばかり体調が悪くても仕事や学校を休まない日本人のあり方もどうかとも言われています。
けれども考えてみると、人間の歴史の中で病気との闘いは際限なく何度も何度もくり返されてきました。わたしは聖愛に来て22年になります。記憶に残っていることがあります。2009年の新型インフルエンザの流行です。礼拝堂に入場しての礼拝が行えない。生徒が集まる行事は中止。修学旅行が延期になったことを憶えています。しかし、ずっと続くわけではなく、やがては収束しました。いつかこの流行も終わるのです。
 わたしたちは誰でも病気にかからずに健康に生ききたいと考えています。しかし、そうはいかないことがあるのです。時として病気になってしまうことがあるのです。例えば、インフルエンザをはじめとする感染症にかかって苦しい思いをしたり、場合によっては他人にその感染を広げてしまうこともあり得るのです。だから、なおさら、いたずらにコロナウイルスを恐れるだけではなく、今起きていることをしっかりと見つめる必要があります。そして、何が正しくて何が間違っているのかもきちんと見極めなければなりません。ネットに流れているらしいデマや心ない書き込みに惑わされてはならないのです。
 先程中村先生に読んで頂きましたが、間もなく卒業にあたる皆さんに考えて欲しい聖書箇所も病気の人に関するものです。イエスがサマリアとガリラヤの間を通っているときの出来事だということになっています。ある村でイエスを出迎えていた人たちがいたと書いてありました。十人の人です。しかし、この十人はイエスを出迎えたと言いながらも、遠くの方に立ち止まったままだというのです。出迎えるという言葉の意味を考えると距離が遠すぎます。どうして近寄って出迎えることができなかったのでしょうか。それは、この十人の人が重い皮膚病を患っていたからなのです。
 皆さんの中にはこれから進学し、社会福祉や看護を学ぶ方も多くいるでしょうから、わかっておいて欲しいことがあります。イエスの時代の病気の人や障がいを持った人々の状況です。それらの人々は、一言で言えば、差別と偏見の目にさらされました。この聖書箇所に登場する重い皮膚病にかかった人は、もし町の中を歩くとしたなら「わたしは汚れた者です。わたしは汚れた者です」と叫びながら歩かなければならないと定められていました。旧約聖書のレビ記13章に記してあります。ユダヤ教徒が守るべき絶対の決まり、律法によってそう定められていました。わたしは病気で汚れているから側に寄らないようにしてくれということを言いながら歩けということです。ひどい話です。

 しかし、これは日本でも同じでした。「ライ予防法」なる法律の下、重い皮膚病すなわちハンセン病に罹患した患者たちを強制的に療養所に隔離する政策が1996年まで40年以上続けられました。家族から強制的に引き離されたのです。ドリアン助川という人が書いた『あん』という小説には(映画化もされました。樹木希林が出演しています。ぜひ観て下さい)療養所で暮らしていた「トキエさん」が、どら焼きのあんをすごく上手に煮る姿が描かれています。でも、ハンセン病に対する周囲の偏見で、やがてどら焼き屋で働けなくなるのです。もう一つ。ジブリの映画『もののけ姫』を知っていますか。この映画には「エボシ」の屋敷の一番奥が出てきます。そこに住む人々は全身白い包帯にくるまれています。おそらく彼/彼女らもハンセン病の人々です。「エボシ」はそれらの人々を自分の屋敷に連れてきて鉄砲を作る仕事を与え、「人間として扱っていた」のです。時代を問わず重い皮膚病の人々がどのような扱いを受けていたのかを想像できるでしょうか。一言で言えばひどい扱いです。感染力の低い病気なのに、「近づくな、側に寄るな」とと言われたりしました。
 おいしいどら焼きのあんを作ったり、「たたら」でできた鉄から鉄砲を作ったりもできるのに、人々から隔離されなければならなかったのです。今話題のコロナウイルスより、ライ菌による重い皮膚病すなわちハンセン病の方が感染力ははるかに低いのです。もっと言えば、「ライ予防法」という法律が終わる以前に、ライ菌はウイルスではないので抗生剤プロミンによって病気を治すこともできていたのです。『あん』の中で「トキエさん」がどら焼きのあんを作っても、そこから誰かが感染することは絶対にないのです。
 けれども、『あん』の中、「トキエさん」はどら焼きの美味しいあんを作れなくなります。『もののけ姫』の中の「エボシ」の屋敷の一番奥にいる人たちも、決してそこから出ることはありません。今日の聖書箇所で言えば、十人の人がイエスに近寄って出迎えることができなかったことと同じです。それは、わたしたちの偏見と差別による理由です。今コロナウイルスによって日本や中国が受けている扱いと同じです。わたしの側に来なければ良いのに、わたしを巻きこまないで、わたしは関係ないから、とそう考えてしまう。わからないからなおのこと不安になる。「関係ない」という言葉には、その人に対する優しさはないのです。自分には関係ないのですから、その人がたとえその人が不利益を受けようと関係ないのです。が、それではあんまりだと思いませんか。イエスは、遠くから自分にむかって声をかけた十人の人を、自分には関係ないとはしませんでした。自分にとってどうでも良い存在とはせず、その呼びかける声に応えました。当時の社会の中、汚れた病だと忌み嫌われていた人々。だから近くには寄れず、遠くから声をかけざるを得なかった人々。わたしの側に来なければ良いのに、わたしを巻きこまないで、わたしには関係ないからと思われていた人々。そのような十人の呼びかけに応えたのです。
 その姿こそ、わたしの信じるイエスの姿です。わたしがイエスのことを信じ、やがて牧師になったのもそのようなイエスの姿に心から信頼するからです。イエスはわたしたち人間を捨てないのです。遠くからでも自分を呼ぶ声に応じて下さるのです。自分には関係ないとは言わないのです。だから、十人の自分に呼びかけた重い皮膚病の人たちに「祭司のところへ行って、体を見せなさい」と言います。十人はそこへ行く途中で病気がいやされたと書いてあります。祭司のところに到着するその途中でいやされたのです。この十人はイエスが「祭司のところへ行って、体を見せなさい」というイエスの言葉を信じました。今このままで祭司のところへ行ったとしても病気が治ったとはしてくれないことを知っていたはずです。が、イエスの言葉を信じて歩き出しました。その途中でいやされるという出来事が起こっているわけです。25年前、牧師として歩き出したわたしも何かがわかっていたわけではない。むしろ、たくさんのわからないことや知らないことを抱えたままでした。それでも、歩み出すことができた。自分は牧師として歩くのだと思い切ることができたのです。
 わたしは何かを信じるというのはこのような出来事なのではないかと考えています。誰かのその言葉に、誰かのその行動に、自分を懸けてみるということです。皆さんでも部活動や勉強で、わたしたち教師から「こうしなさい」と指導を受けたはずです。教師はそうした方が良い結果が導き出されることを知っているので、そのように指導するわけです。それを信じて、自分を懸けてみる。もちろん望んだ結果が伴った人ばかりではないとは思います。が、信じて頑張ることができた人は何かしら成長したと思うのです。反対に、教えられたことを全くやろうとしない。裏で舌を出していた。そういう人たちは「何とかなる」という根拠のない自信と、何ともならなかった今の自分を抱えているのではないでしょうか。努力した人は、その努力の途中で得られた貴い宝物を持っています。まわりの人を信じて、自分を信じて、一生懸命自分を磨こうとしたからです。努力しなかった人は、それなりのものしか得られません。まわりも自分も信じられないまま、なまけた生活を送ってしまったからです。そして自分に言い訳をしたり、まわりが悪かったと他人のせいにしてしまったりするのです。

 もう一つ、この話から考えさせられることがあります。いやされたのは十人だったのに、イエスのところへ戻って来て感謝したのはそのうち一人しかいなかったということをです。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか」とイエスは言っています。他の九人はいやされてそのままどこかへ行ってしまったけれど、一人だけイエスのところへ戻って来たということになっています。この九人は駄目だなあと思います。自分が何かしてもらったら、してくれた人に感謝の言葉を伝えるのはマナーとしても大事なことです。ましてや自分を苦しめていた病気をいやしてもらうというような人生でものすごく大きな出来事が起こったとしたなら、いやしてくれたイエスに感謝の言葉を伝えるのはあたり前ではないかと思うのです。でも、そうできなかった九人がここにいます。
 この九人の中にわたしがいるのか。それとも戻って来た一人がわたしなのか。わたしはこの話からそういう問いかけを受けます。とても厳しい問いかけです。あなたならどうすると問われているのだと思います。皆さんも正しい答えはわかっていると思います。それなのに、そうできない九人がいることをイエスは指摘します。わたしはイエスのすごいところはこういうところだと思っています。何が正しいことか、たいていの場合わたしたちは知っているのです。その時その場でどうすべきかはよほどの愚か者以外はわかっているのです。でも、できないのです。
 先日『どんな男になんねん』という本を読みました。甲子園ボウル常連、大学日本一に何度も輝いた関西学院大学のアメリカンフットボール部を長年指導してきた鳥内秀晃さんの言葉が載っている本です。鳥内さんの言葉の数々からわたしが一番感じたのは、その時その時で一番正しいと思える判断をすることであり、それはあたり前のことなのだけれど、とても難しいことなのだということです。学生たちはこの場合こうすれば良いとわかっているけれども、なかなかそれができない。どうやったらそれができるようになるのかを指導するために試行錯誤した鳥内さんの思いをわたしは読み取りました。こうありました。《危機的になっているのに、いちいち上の人間に聞いている暇なんかない。最終的には個人の判断力を磨かなあかん。》その通りです。まさにこの場面だと思います。
 祭司に体を見せなさいとイエスに言われた十人が、祭司のところに行くその途中で自分の病気がいやされたのを知った。そうであるならば、いやされた後、その途中で気づいてイエスのところへ戻って来て感謝の言葉を伝えるべきだった。あとの九人はその途中で、「これじゃ駄目だ」と気づかないといけなかったのです。そこが「個人の判断力」ですね。そこが感謝の言葉を伝えるために帰ってきた一人と、結果に喜んだままどこかに行ってしまった九人との大きな違いです。その途中で気づく。気づいたら立ち止まる。これで良いか考えて、今一番最善の策を取る。そんなこと誰も教えてはくれません。だから、自分自身の判断力を磨くしかないのです。たとえ後になって間違っていていたとしても、その時の自分が選び得る最善の策を取ることをあきらめてはならないのです。『あん』の「トキエさん」は美味しいどら焼きのあんを作ります。『もののけ姫』の「エボシ」は鉄砲を作ってくれる人々を病気に関わらず連れてきます。イエスは「イエスさま、先生、どうかわたしを憐れんで下さい」と遠くから声をかける重い皮膚病の人々をいやします。それが最善だからです。
 たとえどのような場面でも、わたしたちは自分の決断なしには物事は進みません。できるだけ最善の判断を、できるだけ自分が望む道を、できるだけ他者に優しい気持ちを、そのためにこれからも自分自身を磨き続ける。間違うことも、うまくいかないこともあるはずです。大人だってそうです。でも、自分を信じてできる限りを尽くし頑張ろうとする。何が正しいのかを見極めていく。そして、思い切る。聖愛は皆さんをそのような勇気ある人となるよう教育しました。イエスの姿を、神さまが望む生き方を、隣人を愛し思いやる精神を皆さんは学びました。だから、立ち上がって、行って下さい。あなたの次の場所へ。新しいステージへ。コロナウイルスにめげないで、不安に打ちかって、わたしたちは進まなければなりません。勇気を持って行きましょう。時には誰かに助けてもらって、ヘタれた自分を励ましてもらって、それでもなお前へ進みましょう。その新しい一歩を歩み出すその瞬間が間もなくはじまるのです。

(2019年度 卒業礼拝)