聖書の言葉

「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」

日本聖書協会新共同訳聖書 新約聖書 使徒言行録 3章6節

 

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 皆さんの中には、この秋からこれまでの間に進学や就職のために面接試験を受けたという人も多いはずです。その学校に入学したらを何をしたいのか、その学校で学ぶのにどんなことに興味を持って受験したのか、そして自分の売りは何なのかを聞かれたはずです。就職であれば、その職場で働くのにふさわしいやる気や熱意を持っているのかどうか、あなたがどんな人物で何を得意としているのか問われたことでしょう。面接とは、言うなれば、面接官が皆さんという人を何分か何十分かの時間で見、話を聞き、態度や容姿や雰囲気を感じ、その資質を評価したのです。
 以前わたしは企業の人事担当の人に話を質問したことがあります。「どういう学生を採用するか」と尋ねました。すると、その人はしばらく考えた末に「一緒に働いて楽しい人かどうかですかね」と答えました。なかなか意味深な言葉でした。もっと聞きたかったのですが、それしか教えてくれませんでした。一緒に働いて不愉快な人を採用するより、一緒に働いて愉快になる人を採用したい。その方が生産性が上がる。これは内田樹という哲学者も同じことを自分の著書に書いていたので、そう考えている人事担当者は何人かいるのだろうと思われます。人事担当者が、自分の会社に面接に来た学生のどこを見ているのかというと、一つにはそういう面だと言うのです。もちろんそれだけを見ているのではないことは想像できます。が、一緒に働いて楽しそうな人を採用したいという言葉のはわたしの記憶の中に残りました。
 「見る目がある」という言葉を知っていますか。物事の価値を見抜き、評価する力のことを意味します。このことから、「人を見る目」という言葉ができました。他人の資質を見抜き、長所や短所をわかることを言うようです。「あの人は人を見る目がある」とか「あの人は人を見る目がない」というように使われる言葉です。人が人を評価します。良い面も悪い面もありますが、人は人から見られて評価されるのです。だから、わたしたちには人を見る目が求められるし、同時に人から見られる自分を磨かなければならないのだと思います。

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 先程、大澤先生に読んでいただいた聖書の箇所は、使徒言行録と呼ばれる文書の一部分です。イエスの十字架の死と復活以後、イエスのいなくなった世界での弟子たちの姿が描かれている物語です。イエスの弟子たちのことを使徒と言います。その使徒たちが活動をはじめていった様子が記されているのが使徒言行録です。師匠であるイエスがいなくなり、これから先どうしたら良いのか不安になっていた使徒たちが、次第に勇気を得て活動していく物語が記されています。  
 今日の物語はこうです。ペトロとヨハネという二人の使徒たちが、祈りの時間に神殿に行った。そしたら、そこに生まれながらに足の不自由な男が運ばれてきました。この男は毎日神殿の境内に入る人々に施しを求めながら生きていました。足が不自由ですから、歩くということができない状態です。歩く自由も持っていません。「運ばれてきた」とわざわざ書いてあります。誰かの手を借りないと生きられない状態です。加えて、仕事をすることもできません。毎日施しを求めて生きざるを得ない状態です。日々生活するために必要な最低限のものすら持っていないという状態だったのではないかと思われます。
 これから進学し、社会福祉や看護を学ぶ方もいるでしょうから、簡単にイエスの時代の病気の人や障がいを持った人々の状況に触れます。それらの人々は、一言で言えば、差別と偏見の目にさらされました。一例を挙げれば、重い皮膚病にかかった人は、もし町の中を歩くとしたなら「わたしは汚れた者です。わたしは汚れた者です」と叫びながら歩かなければならないと定められていました。わたしは病気で汚れているから側に寄らないようにしてくれということを自分で言いながら歩けということです。他人に感染させるのを防ぐためであったのでしょう。でも、ひどい話です。病気や障がいを持つということは「本人かその先祖が悪いことをした報いなのだ」と考えられていたのです。因果応報の論理が当然のこととしてまかり通っていたのです。現代を生きるわたしたちの中にも差別や偏見はありますが、イエス当時は今よりもはるかにひどい状態であった。差別や疎外が律法という決まり事によってある意味正当化されていたのです。
 ですから、この足の不自由な男もおそらく差別と偏見の目にさらされつつ、毎日、美しい門のところに誰かの手によって運ばれてきて、一日中誰かからの施しを待ち続ける日々を送っていたのでしょう。それしか、彼には生きる術がなかったのでしょう。そんな彼の前に、ペトロとヨハネがたまたま通りかかった。足の不自由な男は当然のこととして、彼の日常業務として施しをこうたわけです。「見る」ということを考えさせられます。わたしたちの目は、多分2種類の見方ができます。一つは「眺める」であり、一つは「見る」です。「眺める」とは自分の視界に入っているだけの状態ですね。この物語では、ペトロとヨハネの二人は足の不自由な男をじっと見たと書いています。じっと見る。視界に入っているだけではなくて視点を合わせるということです。そして、今度は逆に「わたしたちを見なさい」と語りかけます。ここに関係ができます。行きずりではない。美しい門のところにいつもいる足の不自由な男を通りすがりとして眺めるのではない。「見た」のです。「眺めた」ではないのです。わたしはこの物語を描いた著者の「見る」という言葉の裏側にあるだろう意味を考えさせられます。
 足の不自由な男は「人を見る目」があったのでしょうか。彼が最も欲しいものは日々自分が生活していくための、生きていくためのお金でした。日々自分が生きるための食べ物を得るために必要なお金を美しい門の側で施しによって得る。それが彼にとって最も大事なことであるとするならば、使徒ペトロとヨハネは全くお金を持っていなかったわけです。そういう意味において「人を見る目」はありません。けれども、わたしはこの男が別な面において、「人を見る目」があったことに気づかされるのです。ペトロとヨハネが「わたしには金や銀はない。でも、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と言い、右手をとって立ち上がらせたという奇跡の出来事にそれを見るのです。もしペトロとヨハネに目を合わせなければこの出来事は起こっていません。とするならば、もしかしたら彼は「人を見る目」があったのかもしれないとわたしは思わせられるのです。結果的に自分が願っている以上のこと、欲しいもの以上のことを与えられたわけですから。

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 わたしは「人を見る目」というのは、こういうことではないかと思います。最初は疑っている。この人は自分が信じるに値するのかどうか値踏みする。でも、ある出来事から、ある瞬間から、その人に懸けてみる。この人はわたしにとって必要な人だと信じるようになる。部活動でも、恋愛でも、友情でも、師弟でも、人間関係はそのような思い切りがあってはじまり、やがて深まっていくような気がします。わたしたちは自分の側にやって来る人を見ます。そして、その人の生きる姿勢を見て、感覚的にあるいは直感的に、この人ならばと大丈夫だという一歩踏み出していくのではないでしょうか。そして、その人が、わたしたちの現在を受けとめ未来に期待してくれるからこそ、その先もつき合っていけるのではないでしょうか。「裏切られた」とか「そんな人とは思わなかった」とか口にするということは、自分自身の「人を見る目」が育っていなかったから、もっと言えば、ふがいない自分のせいなのではないでしょうか。
 わたしたちに新しい可能性を与えてくれる人をこそ、わたしたちは「人を見る目」を持って選び取っていくのです。皆さんの高校生活で、辛いことや苦しいことは数限りなく起きたはずです。でも、多くの人たちはその度何とか乗り越えてここまで来ました。それは、独りではなかったからではないでしょうか。例えば、「この人なら信じられる」という人に出会えたからではないでしょうか。もしくは、「この人なら成長させてくれる」という人に出会えたらからではないでしょうか。「この人なら見捨てないでいてくれる」「この人は愛してくれる」でも同じです。あなたの未来に期待し、あなたの未来を応援し、あなたへの協力を惜しまない人に出会い、自分自身でも更なる高みを目指したからこそ苦しいことや辛いことを乗り越えてここまで来たのではないでしょうか。自分の生きる姿勢を示し、あなたを導き支える人たちがいたからこそ、ここまで来られたのではないでしょうか。「人を見る目」を持ち、「わたしたちを見なさい」と見本になってくれた人たちがいたからこそ、ここまで来られたのではないのでしょうか。人の資質を見抜き、その長所や短所をわかり、長所を伸ばし短所を直そうとした人たちがいたことを忘れてはならないと思います。もちろん、わたし自身もです。 
最後に、「わたしたちを見なさい」という見本を示してくれる人たちを思います。この学校にいらっしゃる先生方です。もちろん、誰も「わたしたちを見なさい」と直接に皆さんには言わなかったと思います。でも、聖愛の良き伝統を受け継ぎ、あなたたちを教え導いた。あなたたちを良き人に育てることに心血を注いだ。仕事だからだけではないと思います。卒業式の練習で、聖愛で育てられた生徒たちはこうあって欲しいし、こうあるべきなのだと教えて下さったことを心に留めて下さい。その思いを汲んで卒業式を迎えて下さい。あなたたちも聖愛の良き伝統を受け継ぐ一人一人なのだということを忘れてはならないと思います。聖愛の教育を受た一人の卒業生としてこの世の中に出ていって欲しいと願っています。
 「わたしたちを見なさい」と言うことは難しい。それはわかります。しかし、自分の与えるべき何かを与えられる人になって下さい。自分のできるべきことを尽くす人、たとえお金はなくても与えられる一番良いものを惜しみなく与えようとする人になって下さい。きっと、皆さんの持っている今一番良いものとはこれだと思います。それは、あなたの生きる姿勢です。あなたの未来を夢見るまなざしです。あなたの希望に満ちた一歩です。「人を見る目」のある人は、きっとそのようなあなたを評価し、必要とし、招いてくれるはずです。あなたの与えるものが、まわりの人々を喜ばせることになる。そして、自分自身を輝かせることにつながる。きっとそうなる。そう信じて、わたしたちは今日皆さんに願いを託します。(2月27日 高校卒業礼拝)