宗教主任 石垣 雅子

聖書の言葉

イエスが家に入ると、盲人たちがそばに寄って来たので、
「わたしにできると信じるのか」と言われた。
二人は、「はい、主よ」と言った。

日本聖書協会『新共同訳 新約聖書』 マタイによる福音書9章28節

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わたしたちは時として「信じられない」という言葉を使うことがあります。自分が信じていたものに裏切られたとき、あり得ないと思うような出来事に出会ったとき、「信じられない」と言ってしまうのです。この言葉の裏にあるのは、わたしたちが何かを信じていたいということなのかもしれません。わたしたちは多くの場合において自分のまわりの様々なものを信じていたいのだと思います。今ヨーロッパで起こっていることを知っているでしょうか。ギリシアという国の経済が破綻しそうで、もしかするとユーロが価値をものすごく下げて、紙くずのようになってしまうかもしれないということです。お金が紙くずになってしまうかもしれないなんて信じられないことです。お金は価値あるものとして存在しており、それが価値を失うなんていうことはあり得ないことだとみんな思っていたに違いありません。そうなるのを避けようと今色々な人が努力をしています。

今日読んだ聖書には、こういう言葉が出てきます。「わたしにできると信じるのか」という言葉です。これはイエスの言葉です。この物語はイエスを見かけた二人の盲人がイエスのそばに寄って来たという設定です。そこでイエスは二人に対して、「わたしにできると信じるのか」と尋ねるのです。この言葉は少し変です。二人は一体イエスに何ができると信じたのでしょう。普通であれば、「わたしはこれこれができると信じるのか」というふうになるでしょう。これこれの部分がありません。目的語がありません。でも、二人の盲人はイエスに対して「はい、主よ」と言います。イエスには自分たちに何かができる力があるのだと信じているのです。

結果としてイエスは二人の目を触って「あなたがたの信じているとおりになるように」と言い、盲人の目がいやされたと書いてあります。二人の盲人はイエスには自分たちの目をいやす力があり、自分たちはいやしてもらえると信じていたということになります。そして、イエスは二人が信じていたとおりに目をいやしたということになるわけです。

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わたしは、この物語に考えさせられます。「信じられない」と「信じる」ということについて考えさせられるのです。わたしも含めて、わたしたちは色々な場面で「信じられない」と思ってしまいます。国の経済が破綻しそうだとかお金の価値が下がってしまうとか、そういうことは「信じられない」ことです。そして、本来あってはならないことです。あるいは、政治家の言ってることは「信じられない」とか殺人を犯した人のことは「信じられない」とかそう思うこともあるでしょう。

けれども、その逆に、この二人の盲人のように本当に素直に「信じる」こともできるのだということを気づかされはっとさせられるのです。考えさせられるのです。この二人の盲人はイエスのことを、イエスという存在を、ただ素直に信じたのだと思います。イエスもまた、この二人に「あなたがたの信じているとおりになるように」と言っているのです。

様々なものを信じたいと願いながらそうはいかない日々を送っているのがわたしたちです。「信じる」と「信じられない」の間を生きているのがわたしたちです。でも、この物語を通じて、わたしたちは本当に何を信じればよいのかということをあらためて考えさせられます。