宗教主任 石垣 雅子

聖書の言葉

兄は「いやです」と答えたが、後で考え直して出かけた。

日本聖書協会『新共同訳 新約聖書』 マタイによる福音書21章29節

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生徒の皆さんの会話の中にたまに出てくる言葉があります。「意味わかんない」とか「意味ないし」という言葉です。皆さんは親から何かを言われてムッとしたときなどに「意味わかんない」とか、わたしたち教師から何らかの指導をされたときに「そんなの意味ないし」とか、そのようにして使っているのではないでしょうか。おそらく皆さんは何を言われたのか意味はわかっているのだと思います。わかっているけれど、そのときは素直に「うん」とうなずいてそれに従いたくない。わかってはいるけれど、わかりたくない。ちょっと待って欲しい。そんなときの感情を「意味わかんない」とか「意味ないし」と言っているのではないかと思うのです。わからないと言いながらも、本当に意味がわからないわけではないのだと思います。

確かに、この世の中には本当にわからないことがたくさんあります。近年色々なことが研究され、わかるようにはなってきました。たとえば、昨年話題になったはやぶさという小惑星探査機はイトカワという小惑星に到達しその成分を持ち帰ってきました。やがてこのおかげで今まではわからなかった、想像するしかなかった小惑星の仕組みがどうなっているのかわかるようになっていくのだろうと思います。このようにして、宇宙という大きな大きなわからなかったものがしだいに明らかになっていくのだろうと思います。宇宙の不思議や謎もやがては解決されていくのだろうと思います。

このような行為とは、自分たちがわからないものに意味を与えようとする行為ではないかと思います。そして、わたしたち人間ははるか昔から様々な事柄に意味を与えようとしてきたのではないかと思います。様々な事柄について「これこれだから、結果としてこうなった」と説明しようとしてきました。そのおかげで科学技術が発展したことは確かです。わからないものがある。だから研究する。そして、その研究の結果わかるようになる。そして、その研究結果を応用して役立つものをつくり出す。色々なものがそうやってつくり出されてきました。わたしたちが日常的に使っているものも多くはそうです。電気、電話、医薬品。どれもそうやってつくり出されました。研究することでわかるようになる。わたしたち人間にとって意味があるものとなるわけです。その意味をもっと広げて利用できるようにした結果が今のわたしたちの日常的に使っている便利な道具となったのです。

しかし、そのものごとに意味を見出そうとしてもその意味がわからないこともあるのだと思います。わたしは牧師になって丸15年たとうとしています。教会で3年、この学校に来て12年を経ようとしています。キリスト教を信じるようになった理由も、自分が牧師になった理由も、決してわたしに劇的な出来事が起こったからではありません。たまたまのようなことで教会に行くようになり、この大学を受けてみようと思ってそこしか合格せずに神学部に入り、教会で働くのも悪くないと思って牧師になった。そこには神さまの働きがあったのだと考えてはいます。でも、未だに何故なのかはわかりません。そして、牧師になってからも教師になってからも、自分が何故ここに存在しているのかとか、自分の生きる意味は何なのかとか考え続けているのです。答えの出ない問いをずっと繰り返しているのです。もしかすると、神さまがそうしたからということ以外に意味はないのかもしれません。

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今日、皆さんの卒業にあたり、わたしが考えてもらいたかった聖書箇所は意味がわかるようでわからないお話です。すごくわかりやすいようでわけがわからない話です。これはイエスが話したたとえ話の一つです。イエスはこの話をはじめるにあたって、「あなたたちはどう思うか」と聞いています。尋ねています。《ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き「子よ、今日ぶどう園へ行って働きなさない」と言った。兄は「いやです」と答えたが、後で考え直して出かけた。弟のところへも行って、同じことを言うと、弟は「お父さん、承知しました」と答えたが、出かけなかった。》とあります。

皆さんの例で言い直してみると、親が皆さんに「勉強しなさい」とか「手伝いしなさい」とか言ったわけです。それで、「いやだ。やらない」と返事をしたわけです。でも実際には、後で考え直して勉強とか手伝いをした。これが兄の場合です。一方、「勉強しなさい」とか「手伝いしなさい」とか言われて「はい、勉強します」「はい、手伝いします」と返事はした。でも実際には勉強とか手伝いをしなかった。これが弟の場合です。イエスは問います。「この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか。」答えは簡単です。望みどおりにしたのは、いやだと言ったけれど実際には行動した兄の方です。やるっていってやらないのと、やらないっていってやるのとどっちが良いかかとイエスは尋ねたわけです。そんなことはわかりきっています。実際に行動した方がずっと良いに決まっています。

そんなわかりきったことをイエスは尋ねているのです。わざわざ「あなたがたはどう思うか」などと聞かなくてもよいような、答えがすぐわかることです。一体どうしてなのだろうと考えさせられます。

イエスは「今日、ぶどう園へ行って働きなさない」と言ったら「承知しました」と言って行かなかった弟のことは評価していません。返事だけは良かったけれど、父親の言うことを聞かなかった弟は駄目だと判断しているのです。もしかすると、「ぶどう園で働くなんて意味ないし」とか「父親の命令、意味わかんない」と思ったのかもしれません。わたしの想像です。あるいは、ただ単に途中でめんどくさくなってしまったのかもしれません。でも、そうであってはいけないのだとイエスは語ります。

逆に「今日、ぶどう園へ行って働きなさない」と言った父親に対して「いやです」と答えた兄が、「後で考え直して」ぶどう園に出かけたことにしています。この「後で考え直して」やった行為を評価しているわけです。後で考え直し、これはやっぱりやった方が良いと思い行動した。「いやです」という返事については問いません。それで良しとしているわけです。後になって考え直して、やっぱりやってみようというのもありだと教えてくれているのです。「絶対にこうだ」と決めてかかるのではなく、やっぱりこうだったのかと素直に直せることも大切なのではないかと思います。ぶどう園へ行って働くことの意味は何なのか考えることが大事なのではなく、具体的にぶどう園へ行って働くことこそが今求められていることなのだと教えるのです。

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わたしたちは誰でもできるだけ失敗しないように生きようとしています。後悔しない生き方をするべきだと知っているのです。できる限り、後悔しない、そして失敗しない生き方をしたいと考えて生きているのだと思います。自分の生き方に意味を見出したいし、意味を与えたい。後悔ばかり繰り返したのでは意味が見出せない。失敗ばかりだったら意味なんかない。そう考えてしまうのです。だから、積極的にはなれないことがあったり、色々なことをただ何となくやり過ごしていくようなことばかりが起こるのかもしれません。誰かの呼びかけに対して「いやです」と言ってしまいがちなのだと思います。でも、「いやです」という返事をしたとしても、その後考え直すこともできるのだというのです。後で考え直すとはそのときは気づかなかった何かに気づくことかもしれません。はっとさせられたり、そうだったのかと思い直したりすることかもしれません。

更に言うならば、わたしたちは心の中で、その行動が得か損かという計算を無意識にしてしまうこともあると思います。そして、あまり得はしないと考えると「そんなことに意味はない」と切り捨ててしまうことがあるのです。これは皆さんの年代に限りません。大人の人にもたくさんいます。無駄を省くという言い方を、あるいはコスト削減という言い方を聞くことがあると思います。これは、意味があまり感じられないもの、効果のあがらないものを全て排除していこうという動きです。お金がないのだから無駄は省く、コストは削減する。当然かもしれません。でも、そのことでわたしたち人間が使い捨てになっている部分があるように思われます。

わたしには、そのような社会のあり方がギスギスした人間関係をつくり出しているようにも思われます。価値あること、値段の高いものにだけ意味を見出し、価値がないとか値段のつかないものには意味を与えない社会のあり方が決して正しいとは思えません。価値の高い人と価値のない人という区別を生みだします。そして、自分自身が価値ある存在となれるように必死に頑張り続けることを強いられ競争させられ、価値がないと判断した人々を冷たく排除していくことにつながっていくのではないでしょうか。みんな一個の生命という同じ価値を持っているのに、その生命にすら価値あるものと価値がないものという区別を生みだし優劣をつくり出しているのではないでしょうか。意味ある生命と意味のない生命とか、生きる意味ある人間と生きる意味のない人間というようなとんでもない考え方をつくり出してしまっているのではないかとすら思えます。

キリスト教学校で学ぶということは、あるいはキリスト教や聖書を知るということは、究極的には生命は等しく大事なのだということを考え続けていくことだとわたしは思っています。神という存在がわたしたちに与えてくれた一個の生命。わたしたちは今それを生きています。その生命には多くの人々の助けがあり、優しさがあり、愛があったはずです。そして、となりを見れば、同じように一個の生命を生きている友人たちがいるはずです。大事ではない生命はありません。みんなかげがえなく大切な神から与えられた生命です。それを今わたしたちは必死になって生きているのだと思います。意味がないとか意味がわからないなんていう生命はありません。

やがて卒業していく皆さん、この学校に入るまでの皆さんにとってキリスト教とはなじみのない未知のものであり、わけがわからない宗教の一つだったかもしれません。でも、今はおそらくキリスト教というものが何であるかはわからないにせよ、未知のものでもわけがわからないものでもないということだけは理解できたのではないかと考えています。キリスト教学校では聖書を教えます。礼拝を行います。讃美歌を歌います。これは何らかの意味を求めるために行っているわけではありません。それがこの学校の存在する理由だからです。これを失っては存在する理由自体失ってしまうからです。

この学校は皆さんの心に種を蒔きました。わたしたち教師、あるいはこの学校という環境が皆さんの心に種を蒔き続けました。後になって考え直すことができる素直さの種。わからないことを知ろうとする種。呼びかけに応えて行動する種。生命をいつくしみ大事にする種。自分の人生を自分自身で切り拓いていく種。それらは聖愛が蒔いた種です。どうぞこれから自分の心にある種を育てていって下さい。いつか花が咲くことを心から祈り願っています。(2月25日  卒業礼拝)