宗教主任 石垣 雅子

聖書の言葉

イエスはお答えになった。「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、
預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。」

日本聖書協会『新共同訳 新約聖書』 マタイによる福音書12章39節

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キリスト教は目に見えないものに価値をおき、目に見えないものを大事にすることを教えていると思います。そういう意味においては「イマドキ」という時代とは逆の発想なのだと思います。でも、目に見えないものは見えないが故に不確かだと思われていますし、やっぱり見えるものこそ大切なんだと思うかもしれません。見える故に安心できると思うかもしれません。

目に見える確かなものが欲しい。今日の聖書に出てくる律法学者やファリサイ派もそのように考えていたのでしょう。だから、イエスに対して彼らは「先生、しるしを見せて下さい」と言ったわけです。イエスが神の子である証拠を自分たちの目に見えるもので示して欲しいと願ったのです。わかりやすい自分たちにわかるものを見せて欲しいということです。

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けれども、イエスはこの律法学者、ファリサイ派に対して「今の時代はしるしは与えられない」と答えています。目に見える姿勢を否定するのです。これは、どういうことなのでしょうか。

イエスはわたしたちに見ないで信じることの意味を教えてくれているのではないでしょうか。確かな証拠があるから大丈夫として信じるのではない。見えるものがその手の中にあるから信じられると安心するのでもないのです。イエスは神の子であった。でも、イエスは聖書が語っている通り、言葉によって自分の存在を示し続けてきたのです。

イエスは自分が神の子であることを誇ったり、他人に見せつけたりはしませんでした。「自分には特別な力があるのだ、どうだすごいだろう」という示し方はなさらなかったのです。イエスに従っていた弟子たちの中にもイエスに力を見せつけて欲しいと願った者はいました。が、かたくなにそれを拒否します。そして、最後には多くの人々に裏切られ、捨てられて十字架の上で死んでいくのです。

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わたしたちの生きているこの時代は、何かを信じることが難しい時代なのではないかと思います。わたしはしばしばそう思わせられます。そして、あまりにも入ってくる情報量が多い時代です。その情報量に頭がついていかなくなることもあるように思います。たくさん入ってはくるけれど、すぐに忘れ去られていきます。テレビの映像はそのとき見たのだけれど、しばらくすれば思い出しもしなくなるという状況です。

イエスの言葉は文字として受け取るしかありません。イエスのことを映像として見ることはできないのです。手にとって確認することもできないのです。目に見えるものとしてではなく、目には見えないものとしてわたしたちに与えられているのです。そのことを心に留めなければならないと思います。

わたしたちは実に見えるものばかりに価値をおき生きる生活をしています。そうせざるを得ない部分もあるでしょう。でも、みんな心のどこかでは見えないものが大事なのだとわかっているのだと思います。わかっているけれど、どうしていいのかわからないでいるのかもしれません。見えないものを大事にする。そのことを忘れず、日々の生活を送っていきたいと願います。