宗教主任 石垣 雅子

聖書の言葉

言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。

新約聖書 ヨハネによる福音書1章4-5節

I

わたしたちはお互いにあいさつを交わす存在です。朝出勤して、わたしは大体2年教員室から入るのですが、「おはようございます」と言います。その言葉に対して多くの「おはようございます」という返事が返ってきます。生徒の皆さんと朝お会いしたときにも、なるべく「おはよう」と声をかけるようにしています。けれども、皆さんから声をかけられることもあります。「先生、おはよう」とか「こんにちは」とかそういうふうに声をかけてもらえると、とても嬉しい気持ちになります。
あいさつの元々の意味を考えてみると、わたしが考えるに、「おはようございます」であれば朝早くからおいでになってご苦労様ですという意味なのでしょう。「こんにちは」であれば今日の具合はいかがでしょうかという意味なのかもしれません。相手のことを気遣った、とても優しい言葉なのだろうと思います。お互いにあいさつができるというのは良いことですし、素敵なことです。

II

聖書の舞台、イスラエルのあいさつの言葉は「シャローム」という言葉です。3年生が卒業するときにもらう卒業アルバムの表紙に印刷されている見たこともない言葉はそのヘブライ語の綴りです。あいさつとしての「シャローム」は「あなたに平和があるように」という意味です。けれども、このあいさつは深い意味を持っています。それは「わたしたちには平和はない。今わたしたちは平和ではない。神さまはわたしたちと共におられない。けれども、神さまがわたしたちと共にいて下さるように」という意味があるのだそうです。お互いの人間関係の間に神さまの存在を見ているのです。「お前はどう?」というように相手の安否を尋ねるものではありません。
しかし、わたしたちは本当の意味でそこにいる相手の安否を尋ねるようなことをしているのでしょうか。心配している、気にかけていると誰かにあいさつをすることがあるのでしょうか。適当に声をかけて、終わりにしてしまっていることがないのでしょうか。わたし自身身につまされます。「大変ですね」という言葉が相手に対しての社交辞令になっていることがあります。「おはよう」や「こんにちは」が習慣として適当に自分の口から出ていることがあります。

III

それなのに、わたしは本当の意味でのあいさつがしたいと考えています。心が伝わるような思いやりに満ちたあいさつがしたいのです。「シャローム」であれば、「あなたに平和があるように」と。「おはよう」や「こんにちは」であれば、今日会えて嬉しいよと伝わるような、そんなあいさつがしたいと思います。これはなかなか難しいことなのかもしれません。無理な話なのかもしれません。でも、そうしたいのです。
どうしてなのか理由があります。あいさつ一つでもお互いに思いを伝え合うものとなり得ると思うからです。大事だからです。だから、短い言葉であったとしても、わたしは思いをこめたいと思うのです。困っている人、悲しんでいる人、苦しんでいる人に対して「大丈夫だよ」と言いたいのです。大変な重荷を背負っている人に、「少しだけ頑張って」と言いたいのです。悩んでいる人、泣いている人に、何もできないかもしれないけれど少しでも励ましを与えたいと願うのです。そして、何も良いことなんかないと考えているこの世の暗闇にいる人々に、ひとりひとりを照らし続ける一筋の光を是非とも見出して欲しいからのことなのです。神さまの願っていることというのも、そのようなことだとわたしはそう信じるのです。