宗教主任 石垣 雅子

聖書の言葉

わたしたちは、何事にも真理に逆らってはできませんが、真理のためならばできます。わたしたちは自分が弱くてもあなたがたが強ければ喜びます。あなたがたが完全な者になることをも、わたしたちは祈っています。

新約聖書 コリントの信徒への手紙二13章8-9節

I

わたしが生まれて18歳まで育ったところは山形県の東根市というところです。そう言っても「どこ、そこ?」といった感じでしょう。でも、こういうふうに説明すると「なるほど」と思っていただけるかもしれません。わたしの故郷はさくらんぼの一大名産地です。ちょうど今頃のシーズンは「赤いダイヤ」と呼ばれるさくらんぼが木々にたくさん実っていて、農家の人々はその収穫に忙しい毎日を送っているところなはずです。わたしの母の実家もあまりたくさんではありませんがさくらんぼをつくっていて、子どもの頃は収穫の手伝いに出かけていったものでした。
そんなわたしの故郷で、今年はとても困ったことが起こっているのは皆さんもご存じのことです。農家の方々が一生懸命に育てて、あとは収穫するばかりというさくらんぼが夜中のうちにごっそり盗まれてしまうというのです。それもちょっとやそっとの量ではありません。東京あたりで売りさばけば何千万円にもなるという量が盗まれているのです。どうやらプロの集団が商品価値の高い「佐藤錦」というさくらんぼにしぼって、夜中にあちらこちらとあらわれては大量に盗んでいくということをくり返しているらしいのです。盗まれた農家の人々にとってはたまったものではありません。本当に許し難いとても困ったことだと思うのです。
何故盗むのでしょうか。もちろんさくらんぼがお金になるからです。「赤いダイヤ」とも呼ばれている通り、ここ数年さくらんぼの商品価値が上がってとても高い値段で取引きされています。盗んでいく人々はそのことがわかっていて、たくさんのさくらんぼを盗みそれを売りさばいているわけです。これは犯罪行為ですし、絶対に許される行為ではありません。

II

わたしはこの中に様々な社会の問題が見えてくると考えています。すなわち、それが良くないことだとしても「すぐに儲かる」というようなことに手を染めてしまう姿が見えるように思うのです。待つ時間や手間ひまをかけて育てる時間を全くなしにして、結果だけおいしいところどりしてしまうということです。自分たちの利益を得られれば他人の損なんて考えないということです。自分勝手で、自分の論理だけで生きようとする姿だと思ってとても腹が立ちます。
けれども、このような姿はさくらんぼ泥棒にのみ見られることではないとも思います。わたしたち大人にも、あるいは生徒の皆さんにも時折見られることなのだと思います。考えたり、迷ったりすることを嫌がり、答えだけをすぐに知りたがるとすればおいしいところどりでしょう。面倒くさいことを避けて、やるべきことをやらないで済ませたり他人まかせにしたりするのも同じだろうと思います。締め切りを守らなかったり勝手に引きのばしたりするのも同じだろうと思います。
わたしたちは自分の生き方が自分勝手になっていないかたえず問いかけながら生きる必要があるのだと思うのです。振り返って考えてみると、わたしたちそれぞれなかなか自分自身の姿が見えないでいます。それだからこそ、なおのこと丁寧に、手間ひまや時間をかけることをいとわずに、生きていかなければならないのだと考えるのです。