宗教主任 石垣 雅子

聖書の言葉

主なる神は言われた。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」

旧約聖書 創世記2章18節

I

人はみんな色んな誰かから助けられ支えられて生きてきたはずです。そして、色んな誰かを助けたり支えたりして生きてきたはずです。親や友人、恋人や教師。あなたのまわりには色んな人がいたことでしょう。みんな誰かと一緒に生きてきただろうし、それらの人々はあなたにとってかけがえのない存在であったはずです。
でも、ただ単に誰かと一緒にいるだけではかけがえのない存在とはならないと思うのです。長い時間を共に過ごしたとしても時間だけでは助けられたり助けたりの関係を築けはしないのです。当たり障りのない会話をし、楽しくみんなで群れているだけであったとしたなら関係は深まらないのだろうと思います。必要があれば言うべきことをはっきり言ったり、駄目なことを駄目だと叱ってくれるようなことがなければならないのだろうと思うのです。言うなれば、その人の人生に踏みこんでいくようなこともあって、はじめてかけがえのない存在となっていくのだろうと思うのです。お互いがお互いに対して真剣に向き合ってこそできてくるのだろうと思うのです。
「友達に泣かれて友達のありがたみがわかった。親に泣かれて親のありがたみがわかった」と、かつてわたしに語ってくれた人がいます。その人には真剣に向き合って、その人のことを思い泣いてくれる友達や親がいたのでしょう。さらに、その人は友達や親の泣く姿を見て心が大きく動いたのでしょう。お互いの反応があって変化が起こったわけです。だからその人の生き方を変えてその人を良い方向へと導いてくれたのでしょう。助けられるとか支えられるとかいうのはそういうことを指すのだろうと思うのです。共に生きるということはそのようなことなのだろうと思うのです。

II

今日読んだ聖書もまた、人は誰かと共に生きていくものだということを示す箇所だと考えられます。これは創世記の中でも「人間創造物語」とも呼ばれている物語です。主なる神が一人目の人を土の塵で創造する。が、「独りでいるのは良くない」と、人には共に生きる相手が必要なのだと考え、だから二人目の人を創造したという物語になっています。神は人がひとりぼっちであるということは自分の意志にかなっていないこと、理想を実現できない不満足な状態だと考えたわけです。ですから、端的に言えば、人とはひとりではなく共同体の中で、助け合ったり支え合ったりしながら生きていくべきことを語ってくれていると思います。
ところが、この物語は創造された一人目の人が男であって、二人目が女であったというその順番だけが着目され問題とされてきた箇所でもあるのです。男アダムが最初に生まれてきて、女エバが後から造られた。このことから、男性が優位であり、女性は男性の補助的な存在なのだとされてしまってきた歴史があります。しかし、ここで言われている「彼に合う助ける者」と訳されている言葉は「エゼル」というヘブライ語です。「エゼル」は助ける者というような誰かの補助的な存在ではありません。ヘルパーというような意味ではなく、もっと強い意味を持つ言葉です。もし強いて日本語に訳すならばパートナーとか連れ合いとかそのような意味を持つ言葉です。それなのにこうやって日本語で読むとアダムのお世話をかいがいしくするようなニュアンスになってしまっています。アダムが主たる存在であってそれを補助する役割を果たす人が「エゼル」なわけではないのです。あくまでも対等な関係であるということに注意したいと思います。
そう考えてみると、男性が優位であるとか女性は補助的な存在だとかいう解釈は成り立たないことになります。その人がいてはじめて自分があるというような深く強い関係の存在ということになると思うのです。この人とお互いに助け合い支え合って生きていくんだというような意味なのだと思うのです。
ひとりぼっちの人アダムを眺めていた神は、人とはひとりで生きていくのではなく、助け合い支え合って生きていく存在が必要なのだと思ったわけです。そのために、まず動物たちを連れてきます。「主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形作り、人のところに持ってきて人がどう呼ぶか見ておられた。人が呼ぶと、それはすべて生き物の名となった。人はあらゆる家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名を付けたが、自分に合う助ける者は見つけることができなかった。」(※創世記2章19、20節)と書いてあります。動物たちに名前をつけて呼びかけてみたけれど、その呼びかけに応えてはもらえなかったというのです。反応が思わしくなかったわけです。深く強い関係にはなり得なかったわけです。
やはり人に合うのは人しかいないという結論に達した神は、人を深い眠りにおとします。そして、眠っているその間にあばら骨を抜き取りそのあばら骨でもうひとりの人、女を創り上げました。ひとりぼっちだった人アダムが、自分に応えてくれるもう一人の人エバと共に生きるようになるのです。かけがえのない人と出会い、これからはお互いに助け合って支え合って生きていけるようになったわけです。
けれども、この後アダムとエバに起こる物語はあまりにも有名です。創世記の3章は蛇の誘惑にそそのかされて、食べてはいけないとされていた園の中央に生えている木の果実を食べてしまう二人の姿を描いています。さらに、食べた責任を神に問われ、「自分が悪いんじゃない」とお互いに責任を転嫁し合う二人の姿をも描いているのです。かけがえのない人と出会い、これからはお互いに助け合って支え合って生きていけるようになった。呼べば返事をしてもらえる、打てば響く、そんな関係ができたはずなのです。にもかかわらず、その後の展開には、お互いを大事にし尊重し合い共に生きていくことのできない姿が示されているわけです。あるいは、共に時間を過ごす人はいるけれど心の中はひとりぼっちであって疎外感を感じてしまうようなさびしさが描き出されているわけです。

III

そして、この姿とは創世記に記されている二人のことだけではなく、今を生きるわたしたち自身にもあてはまるものなのではないでしょうか。仲が良いことが対等な関係を生み出すのではなく、どちらかからどちらかへの一方的な依存になってしまうようなことはないでしょうか。あの人は自分のことをわかってくれていると、全てを頼り切った他人まかせの生き方を選んではいないでしょうか。自分の責任を果たさずに棚に上げ、他人の責任ばかりを追及してしまうようなことはないでしょうか。どっちが優位かと優劣だけを競い合い、自分よりも下にいる人を見つけだして安心してしまってはいないでしょうか。その現実を仕方のないことだとあきらめたり、なるべく考えないようにしてすませて生きているのかもしれないと思うのです。
もし、そうであるならばわたしたちはまわりの隣人たちを助け支える存在にはなり得ていないのかもしれません。かえって、まわりの隣人たちを踏みつけたり傷つけたりして生きてしまっているのかもしれません。かけかえのない存在を、自分の利益や自分のエゴのために利用していることになってしまうのかもしれません。神がわたしたち人間をひとりぼっちではなく生きるようにとされた、お互いに助け合い支え合う共同体として創造された事柄から遠く離れてしまっているのかもしれません。
でも、だからといってあきらめる必要はありません。現実にわたしたちはひとりで生きているわけではないし、わたしたちのまわりには隣人たちがいるのです。これまで困っているときに手を差し伸べて助けてくれる人々がいたのです。これまで途方に暮れたときに支えようとしてくれる人々がいたのです。あるいは、自分のために泣いてくれるような人々がいたのです。それぞれにそういう人々がいたからこそ今日まで生きてこれたのだと思うのです。それらの人々は創世記で言うところの「エゼル」たる人々なのだと思うのです。彼/彼女たちは自分の利益やエゴや損得のために助けたり支えたりしてくれたのではないと思います。放ってはおけないとか、自分にできることをしてやりたいとか、そういう気持ちからのことなのだと思うのです。感謝するしかありません。
ここに集まっている3年生の皆さんはもう間もなくこの学校を去って新しい場所へと旅立ちます。その新しい場所で、自分自身の人間関係を新しくつくっていかなければならないことでしょう。友達をつくるのがあまり上手ではない人もいるでしょう。うまくやっていけるか心配な人もいるでしょう。けれども、人はひとりでは生きられない。そしてひとりで生きることは神の意志ではないと創世記は語っています。
どうぞ、これからも色々な人々と出会っていって下さい。皆さんには、これまでの人生でたくさんの人々に支えられ助けられ励まされてきた経験があるはずです。そして、たくさんの人々を支え助け励ました経験もあるはずです。だから、どうしたらいいのか、どうしてはいけないのかわかっているはずです。おそらく何度も何度も後悔し反省してきたはずです。そのことを土台にし、これからの人生においても新しい出会いを重ねていって下さい。かけがえのない人々と出会っていって下さい。(2002年度卒業礼拝)