宗教主任 石垣 雅子

聖書の言葉

イエスは涙を流された。ユダヤ人たちは「ご覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言った。

新約聖書 ヨハネによる福音書11章35-36節

I

泣き虫のわたしはこの年になってもときどき泣けて泣けて仕方ないことがあります。我が家族はみんな泣き虫ですので、これは家系なのだろうとあきらめているところもあります。人前で泣くことは恥ずかしいことだし、立派な大人はそういうことをしないものだと言われたりもします。わたしの中にもそういう気持ちは確かにあります。でも、出てしまった涙はもう戻しようがありません。悲しみや苦しみ、困難さを乗り越えていく力は思いっきり泣いた後に与えられることが多いものです。それに、泣くのは心が動いている証拠だと思うのです。泣くのも笑うのも心が動くからなのであり、心が動くということは生きていく上において大事なことだろうと思うのです。心が鈍感であまり動かないよりは、たくさん動かした方が心が程良く育っていくような気がします。
しかし、わたしたちが流す涙というのは自分自身のための涙が圧倒的に多いのだろうとも思うのです。自分がかわいそう。自分がふがいない。自分に腹が立つ。自分が許せない。そんなときにわたしたちはよく泣きます。実際に涙を流していなくても心の中で泣いている人もたくさんいるのだろうと想像します。あるいは、泣きたいのに泣けないでとても苦しい思いをしている人もたくさんいるのかもしれません。

II

けれども、昨日わたしは愕然とさせられました。わたしたちは自分自身のためにではなく涙を流すこともできるのだということにです。人は他人のために泣くことがあるということに気づかされたからです。単なる同情とか憐れみとかの涙ではありません。おそらく本人はどうして泣いたのか理由なんかつけられないのでしょう。わからない、コントロール不能の涙です。でも、そのときその瞬間その人には純粋に他人のために流す涙があった、そして思わず泣いてしまったのです。他人が感じる痛みや苦しみや悲しみの故に涙を流すことがあるのがわたしたちなのです。
長い間わたしはそんなことを忘れていました。けれども、自分の目の前で、そのような涙を目の当たりにして、思い知らされたのです。「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい」という聖書の言葉(※ローマ12:15)をそこに見たように思えたのです。その経験はわたしにとってとても衝撃的なことでした。わたしは泣くということの意味の深さを考えさせられました。そして、一体自分が今まで数限りなく泣いたうち、そんな涙は何回あったのだろうと考えさせられました。

III

今日の聖書でイエスが見せた涙もまた他人のための涙なのだと思います。ラザロという人が病気で死んだ。ラザロの家族や親しい人たちは愛する人を失って泣いている。その様子を見て、イエスは涙を流したというのです。他人が感じる痛みや苦しみや悲しみの故に、それに対して共感し思いやるが故に、イエスは涙を流されたのだとわたしは読みます。「大変なのね」とか「かわいそう」とかではなく、今悲しんでいる人たちが目の前にいる。その人たちと共に悲しみ涙を流したのだということです。心を傾けたということです。もうこの際理由なんてどうでもいい、恥ずかしいとかそんなこと関係ない、心の中からあふれ出るような涙だったのではないかとわたしは想像するのです。
自分自身のことを含めて省みるとき、わたしたちは自分自身のためにはすぐに泣くことができる存在なのかもしれません。絶対に泣いてはいけないときにすら涙を流してしまうことのある存在なのかもしれません。けれども、同時に、悲しむ人や苦しむ人、そして今泣いている人のために泣くこともできる存在なのだと考えます。少なくても、その可能性を持っているのだと思います。それは共感の涙であり、思いやりの涙なのだと思います。人は、他人の姿を見て心を揺り動かされ、そのために泣いてしまう。イエスの泣く姿を思い浮かべながら、そして昨日の経験を思い出しながら、わたしは自分自身がこれまで流してきた涙の意味を考えさせられました。