宗教主任 石垣 雅子

聖書の言葉

闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。

旧約聖書 イザヤ書9章1節

I

あなたは他人を喜ばせる人になりたいと願っているでしょうか。自分のまわりにいる友人や家族を励ましたり、支えたり、助けたり、慰めたりしながら生きていきたいと考えたことがあるでしょうか。それとも他人なんてどうでもいいんだと考えているのでしょうか。家族や友人なんて利用するだけのことだ。自分だけが楽しければいいんだと思うのでしょうか。他人を怖がらせたり、悲しませたり、苦しませたり、迷惑をかけたりして生きるのがあたり前なんだと思っているのでしょうか。
そんなことを考えてみたことがない。どっちかわからない。自分は自分の思うように過ごしているだけなんだと思うかもしれません。でも、他者との関係の中で自分はどういう役割を果たして生きているのか考えてみることは大事なことだと思います。少なくとも、自分はどういう役割を果たしたいと願っているのか考えてみる必要があるように思われます。他人を喜ばせる人になりたいのかそうではないのかと考えてみることはとても大切なことだと思うのです。

II

昨今だいぶ巷をにぎわせている「宗教」があります。ニュースや新聞を見てみるとき、どうしてこういうものがはやるんだろうと考えてしまいます。更に、この頃他人の気持ちのわからない人が増えたと言われています。他人のことを思いやることができず、自分だけ良ければ後の人なんて関係ないんだと考えている人が多くなったというのです。この二つは同じところに根があるように思われます。他人のことなんてどうでもいい。自分さえ良ければ後の人なんてかまわないという考え方が根底にあるような気がするのです。
言うなれば、他人を喜ばせたり、励ましたり、助けたりすることなんて大事ではないんだという考え方です。自分たちだけ喜べればいい、自分たちだけ励まされればいい、自分たちだけ助けられればいいというものです。「自分たちだけ」という優越感を抱かせる考え方です。困っている人なんて関係ない。助けを求めている人なんて目に入らない。泣いている人は勝手に泣いていなさい。こういうことです。考えてみれば、これは怖いことです。もっと進めば、多くの人を怖がらせたり、脅かしたり、悲しませたりする考え方だと言ってよいと思います。

III

わたしはイエス・キリストという存在をすごいなあと思って生きています。聖書に描かれているイエスは、他人を怖がらせたり、悲しませたりする人ではなかったからです。むしろ、多くの人を喜ばせたり、励ましたり、支えたり、助けたりする人でした。自分たちだけ特別だと考えていた人たちのそういう考えをうち砕いていったのがイエスです。みんなを愛し、みんなを喜ばせ、みんなと共に歩いていこうとしたのがイエスです。だからわたしは彼のことをすごいなあと思っています。そして、信じ、信頼しています。
イエスは困っている人、助けを求めている人、悲しんでいる人を放っておくことができませんでした。おそらく彼はそういう人たちにとって暗闇の中に見える光のような存在だったと思います。彼が一緒にいてくれることで喜ばせられたり、励まされたり、支えられたりした人がたくさんいたのだと思います。わたしもその中のひとりです。アドベントのこのとき、わたしたちは今一度他人のことを心から思いやった、イエス・キリストのことを学んでみたいと思います。