宗教主任 石垣 雅子

聖書の言葉

どうして、今の時代の者たちはしるしを欲しがるのだろう。

新約聖書 マルコによる福音書8章12節

I

わたしはときどきこういう言葉をつぶやくことがあります。「予定は未定にして決定にあらず」と。予定をたてたとしても必ずしもその通りにいかないこともあるというのがわたしのつぶやきの意味です。もちろんその中には物事を予定通りに進めることができなかったことについてわたしなりの言い訳も含まれています。もう少し頑張ればできたかもしれないとか、あと一時間かければできたかもしれないとかいう場合、あと少しができなかった言い訳に「予定は未定にして決定にあらず」と言ってしまうわけです。
物事が予定通りに進むことの方がめずらしいのであって、ほとんどの場合は予定通りいかないのだと考えているとことがあります。こう考えるのは本当は良くないことかもしれません。ずるずると甘えてしまってきりがなくなってしまうのかもしれません。どんなことがあっても、たとえ妨害されたとしても予定通りに進めるんだと堅く決心してコトにあたるあたるのが一番素晴らしいことなのかもしれません。

II

しかし、実際には、残念なことにどうあっても予定通りにやるというわけにはいかないことが圧倒的に多いのです。テスト勉強をしようと思ったけれどどういうわけか眠ってしまったとか、この仕事だけは済まそうとしたけれど突然ある人から電話がきて人生相談するはめになったとか、今度の試合には勝つつもりだったけど負けてしまったとかそういうことは数限りなくおこるのがわたしたちの人生です。もしそういうことが一回もおこっていない人がいたら、それはすごく強運なのか、よっぽど意志が強いかどっちかです。 にもかかわらず、わたしたちは予定をたてて、なるべくその通りに進むことを願っています。どこかで予定通りにはいかないことを知っていながら、他方で予定通りに進むことを願って生きているのです。考えてみれば不思議なことです。矛盾しているかもしれません。
一体どうしてなのでしょうか。何故予定をたてるのでしょうか。それは、それぞれが人生の中身を大切にしようとする表れなのではないかと思うのです。結果だけが全てではなくて、「過程」を大事にしようとする意志が予定という言葉の中には含まれているのではないでしょうか。予定通りに進んだかどうか、すなわち結果ということもそれはそれで大事なのだけれど、むしろ結果よりもどれだけ頑張ったかという過程を自分自身で判断するために予定をたてるのではないかと思うのです。

III

何とか頑張ったけれどうまくいかなかったというのと、全く何もしないでうまくいくはずがないというのはそれこそ百八十度違います。大切なのはどれだけ目標に近づけたのか、自分自身で満足できたのか、頑張って予定通りにやろうとしたのかということです。「予定は未定にして決定にあらず」ですが、その未定の部分をどれだけ自分自身で充実させることができたかなのです。
今日の聖書の中でイエス・キリストはこう言っています。「どうして、今の時代の者たちはしるしを欲しがるのだろう。」この言葉をわかりやすく言えば、どうして結果ばかりにとらわれてしまうのだろうということだと思います。もっと過程を大切にしなさいということだと思います。予定通りにはいかない現実の中、たとえ予定通りにいかないとしても、どれだけその時間を充実させることができるのか問われています。気づいたときからはじめたいと思います。結果が全てではありません。どれだけ自分で満足できたかだと思います。