宗教主任 石垣 雅子

聖書の言葉

「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」

新約聖書 ヨハネによる福音書8章32節

I

子どもの頃のことを思い出してみて下さい。親や大人から「そんなことやっちゃ駄目だよ」と言われたことはなかったでしょうか。散らかした遊び道具を片づけない。友達をぶった。そういうことの度に「こら、どうしてそういうことをするの。やっちゃ駄目よ」とと言われたことはないでしょうか。怒られるという経験のことです。
良いことをすればほめられ、悪いことをすれば怒られる。そういうことの中から私たちはやって良いこととやってはいけないことを学習していきます。これは自分の人生を生きていく上でとても大事なことだと思います。それを知らないままでは大人になることは難しいのかもしれないとすら思うこともあります。 本当のところ、一体私たちは良いと悪いというのをどうやって判断していくのでしょうか。経験というものを通して経験的に学習していくのでしょうか。これをやればほめられるし、これをやれば怒られる。怒られるのは嫌だからやらないようにしようというふうに考えていくものなのでしょうか。もっと別な絶対的な何かがあって、それに従って判断していくのでしょうか。あるいは、たくさんの知識を得るとわかるようになるのでしょうか。そこのところがわたしにはわからないのです。

II

けれども、ひとつだけ言えることがあります。私たち人間は誰でも良いと悪いという間を揺れ動いている存在だということです。そして、おそらく多くの人は良い方向を目指そうという意志を持っているはずなのです。テストで良い点を取ろうとか、今度こそ失敗しないようにうまくやろうとか考えるのはその表れだと思います。しかし、私たちはその反対方向に働く力をも持っています。もうどうでも良いんだとか、どうせ自分なんかとか、他人のことなんて知ったこっちゃないとかそういう考え方をしてしまうこともあるのです。
そして、これじゃ駄目なんだとわかっているにもかかわらずそれがやめられなかったり、どうやって方向転換したらいいのかわからないこともあります。勇気がないのでしょうか。根性なしなのでしょうか。何が良いのか何が悪いのか本当にわからないのでしょうか。それとも、自分の人生をあきらめて投げ出してしまっているのでしょうか。

III

もしかすると、私たちはその答えを一生かけて探していくのかもしれません。間違いなくそうなのでしょう。経験から良い悪いを判断するのか、それとも知識なのか、わたし自身わからないままであるのも、一生かけて探していきなさいということの一面なんだと思います。それしかないんだと思います。けれども、それすらも嫌になってしまったらどうしようもありません。自分自身の人生をあきらめて投げ出してしまうことです。誰かによってどこかに流され、流れ着く先が全くわからないということです。
何が良いことであり、何が悪いのか。この問いを私たちは突きつけられています。神から問われ続けているのです。まだ遅くはありません。考えて下さい。真剣に考えて下さい。果たして、何が善であり何が悪か。古来より問われ続けてきた人類最大の問いであり謎です。その答えは自分で見つけて下さい。自分自身で見つける他ないのです。その答えを探しながら、それぞれの歩みを勇気を持って進めていきたいと願います。