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宗教主任 石垣 雅子

その響きは全地に、その言葉は世界の果てに

聖書の言葉

天は神の栄光を物語り
大空は御手の業を示す。
昼は昼に語り伝え
夜は夜に知識を送る。
話すことも、語ることもなく
その声は聞こえなくても
その響きは全地に
その言葉は世界の果てに向かう。

日本聖書協会新共同訳聖書 旧約聖書 詩編 19編2~5節

I

 皆さんは11月11日が何の日か知っていますか。有名なのはポッキーとプリッツの日だと思います。その他にも、電池の日(プラスとマイナスだから)とか、サッカーの日(11対11で対戦するから)とか介護の日(「いい日いい日」の語呂合せから)とかでもあるようです。が、今日お話したいのはそれらではありせん。1918年の11月11日は第一次世界大戦の停戦記念日なのです。そして、2018年の今年はちょうど第一次世界大戦終結から100年の記念日だったそうです。今年11月11日にフランスのパリで第一次世界大戦から100年の式典が開かれました。わたしは、その式典の中でフランスのマクロン大統領が、このような演説を行ったというニュースを耳にしました。

 《自国の利益が第一で、他者は二の次だと言うことによって、国を尊いものにし、命を吹きこみ偉大にするもの、中でも重要な道徳的価値観というものを我々は消し去っている。孤立、暴力、あるいは支配によって平和への希望をくじくことは間違っている。そんなことをすれば、当然のことながら未来の世代の人たちは我々にその責任があると考えるだろう。》
少々難しい言葉が出てきます。が、わたしはこの演説の内容にはっとさせられたのです。それは自国優先主義、すなわちナショナリズムと呼ばれているものに対抗しようというマクロン大統領の考え方がはっきりと示されていると感じたからです。この演説後、フランスでは今に至るまで燃料税の値上げに端を発するデモが続いており、マクロン大統領の政策の失敗だと言われています。しかし、《孤立、暴力、あるいは支配によって平和への希望をくじくなら、当然のことながら未来の世代の人たちは我々にその責任があると考えるだろう》という彼の考え方は全くその通りだと考えさせられたのです。そして、自分たちのことだけを考えてしまう自己中心的なわたしたちに対する警告であると感じたのです。わたしたち自身も、また小さなナショナリズムというべき状況に陥っている部分があるのではないかと思うのです。

 イエスが生まれた2000年前のユダヤもナショナリズムの中にあったのではないかと想像されます。この時代はパクス・ロマーナと呼ばれております。けれども、パクス(平和)とは名ばかりで、貧しい奴隷や下層民と、豊かな貴族の間には越えられない身分の差がありました。格差社会と呼んでいいと思います。貧しい人々は日々の生活がやっとで、食べるものにも事欠く状態であったようです。朝から晩までひたすら働きづめの人々がたくさんいる。その裏では、毎晩宴会を開き食べ飽きるほどの金持ちたちがいたわけです。力ある者が力弱い者を思うままに支配する。そのような世の中が展開されていたわけです。ローマの支配が及んでいた直轄属州ユダヤでも、人々は辛く厳しい生活を送っておりました。ルカによる福音書のイエス誕生物語には《そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に登録せよとの勅令が出た》と記されています。《全領土の住民に登録せよ》というのは何か。税金を集めるために住民を登録させるものです。住んでいる人間の数を正確に数えて、その人数分の税金をきっちりと集める。その税金によってローマ本国は潤いました。パクス・ロマーナもローマ本国のお金持ちのみが栄え、貧しい住民たちが苦しんでいる一つのナショナリズムだったのではないかと思うのです。

 そのようなローマが地中海世界を支配するその歴史のただ中に、一人の赤ちゃんが誕生してきます。後にキリスト(救い主)と呼ばれるようになるイエスです。住民登録というローマ帝国が出した逆らえない命令のために、身重のマリアとその夫ヨセフは住んでいるナザレからベツレヘムに行かなければなりませんでした。旅先のベツレヘムで誰も応援してくれない中、マリアはイエスを生まざるを得なかった。過酷です。イエスは宿屋にはマリアとヨセフの泊まる場所がなかったので家畜小屋で誕生し、家畜のえさを入れる飼い葉桶の中に寝かされたのです。粗末で貧しい場所で、そして、誰からも顧みられない場所で、マリアとヨセフは大変な思いをしながらイエスをこの世に誕生させたのです。そして、当時の多くの人々は救い主が生まれたなどという、そのような出来事が起こっていたことに全く気づきませんでした。気づいたのは、ごく少数の人々でした。ルカによる福音書で言えば夜通し羊の群れの番をしていた羊飼いたちであり、マタイによる福音書で言えば占星術の学者たちだけでした。

 わたしは今日、この占星術の学者たちに注目したいと考えています。というのは、学者たちはナショナリズムを越えた人たちなのではないかと思っているからなのです。自分たち優先、自分たちさえ良ければというような自己中心的な考え方をしなかった人たちなのではないかと思っているからなのです。先程舞台上で演じたページェントの中にも学者たちが登場いたしました。そのとき歌った讃美歌に《われらはきたりぬ はるけき国より 星に導かれ 野山こえて》とありました。はるけき国より旅をするのはとても困難な時代です。乗り物は馬とかロバとかラクダとかしかありません。あとは自分の足で歩くかしか移動の方法はなかったのです。旅を英語で「travel」と言いますね。この言葉は、苦労するとか骨を折るという意味から出来たものです。もともとはラテン語の「トリパリウム」という言葉が元で、労苦とか苦痛という意味です。旅をすることは大変な苦行だったということを言い表している言葉です。苦労しながらはるか遠くの東の国からやって来たのが占星術の学者たちだったのです。

 しかも、学者たちは異邦人、すなわち外国人でした。ユダヤ人ではなかったのです。《ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおられますか》と尋ねています。異邦人である彼らに、本来「ユダヤ人の王」誕生は関係のないお話だったはずです。にもかかわらず、彼らは、はるけき遠い東の国からユダヤまで旅をしてきます。星の知らせにより、彼らは気づいたのです。ユダヤに新しい「ユダヤ人の王」となる存在が生まれるのだということに。そして、自分たちはユダヤ人ではないけれど、ぜひとも会ってみたいと考えたのです。さらに、決意したのです。遠い旅路であったとしても会いに行こう、と。自分たちのことだけ考えていたらできないことです。面倒くさくて大変なことはわかり切っているのです。苦労するだろうし、場合によっては生命まで落とすことになるかもしれない。それでも彼らを旅立たせる理由があった。行きたいと思った。行かなければならないと決意した。彼らは思い切ったのです。「よし、行こう」と。

 わたしは、この姿勢こそ彼らが生きていた世界の中にあって、ナショナリズムを越えていく生き方だったのではないかと考えています。自分さえ良ければとか、自分の利益優先とか、損か得かとかを考え打算的に行動するのではない生き方です。「ユダヤ人の王」の誕生など異邦人の自分たちには全く関係のない出来事だと考えても不思議ではないはずです。しかし、彼らは自分たちとその出来事を関係づけてとらえた。狭い自分たちの世界で全てを完結させて良しとするのではなく、自分たちの世界を広げて物事をとらえようとした。新しいものを見てみたい。自分の知らないものを知りたい。もっと先へと進みたい。もっと上を目指したい。そのような姿勢なのではないでしょうか。わたしは、その姿勢にすごいなあと思わせられるのです。

 皆さんも目指すものは同じではないでしょうか。まず、自分が一番大事だというのが利己主義になっていないかと立ち止まって考えてみることです。今ある自分の狭い世界を飛び出し、また見ぬものや新しい人に出会い、自分の幅を広げていくことです。大学やその他の進学先に行ったり、就職したりするのもそのためではないでしょうか。学校で勉強するのも、また知らなかった考え方や価値観や知識に出会い、自分の世界を広げるためではないでしょうか。もっと簡単な言い方をすれば、自分はまだまだこれでは駄目だと気づいて努力をしなければならないと考えたり、自分優先で自分の利益だけ求めるのは子どもな考え方なのだと気づいていくことです。自分自身の小さなナショナリズムを越えていく姿勢です。自分自身の狭い世界から、広い世界へと一歩先へ踏み出していく姿勢です。

 そう考えるのは、わたし自身の昔々の経験からでもあります。山形の田舎の高校を卒業したわたしは一年浪人の末京都にあるある大学へ進学しました。そこにいる先生も友人たちもみんな賢かった。太刀打ちできませんでした。でも、わたしはそこで広い世界を知りました。たくさんのことを学び、たくさんお世話になり、たくさん支えられました。自分の知らない考え方や価値観を得ました。今のわたしがあるのはそのおかげです。出会った人たちが、わたしに色々教えてくれたからこそ今のわたしがあるのだと思っています。そして、当時のわたし自身が知らない何かを、その先にある何かを見てみたいと願ったからこそのことだと思います。

 最後に、わたしが皆さんに伝えたいのはこのことです。誰かに何かを与える生き方をするということです。占星術の学者たちは、東の国から旅をし、ユダヤにやって来て「ユダヤ人の王」イエスと対面します。そこで彼らは、黄金、乳香、没薬という贈り物を献げます。自分たちが持ってこれる最良の贈り物を持ってユダヤまでやって来たということです。イエスから何かをもらって帰ろうとするのではなくて、自分たちの側から自分たちのできる最善を尽くしたのです。与える姿勢です。ナショナリズムは、自分が持っているものは他人に与えません。自分だけが優先で自分が持っているものは自分の利益のためだけにある。だから与えられないのです。でも、ナショナリズムを越える生き方は自分の持っているものを他者に与えることができる。分かち合うことができる。愛や思いやりを他人に届けることができるのです。

 神さまはわたしたち人間に自分の独り子イエスを与えました。その記念日がクリスマスです。2000年経ても、わたしたちはその出来事を憶えてクリスマスを祝っています。詩編の詩人はこう語ります。《話すことも、語ることもなく その声は聞こえなくても その響きは全地に その言葉は世界の果てに向かう。》今日クリスマスという出来事を憶えるとき、わたしたちは自分のまわりの狭い世界にとどまり生きるのではなく、広い世界へと出て行く生き方を学びたいと思います。多くのものをたくさんの人々と分かち合う、与える生き方を目指したいと思います。わたしたちの未来の世代へ希望や愛や夢をつないでいくためにです。