彼を迎えて、豊かな祝福を与え

宗教主任 石垣 雅子

〜聖書の言葉〜

 彼を迎えて豊かな祝福を与え
 黄金の冠をその頭におかれた。
 願いを聞き入れて命を得させ
 生涯の日々を世々限りなく加えられた。

日本聖書協会『新共同訳 旧約聖書』詩編21編4−5節

1,お客さんがやって来る

皆さんの住む家にお客さんがやって来るとします。やって来るお客さんは皆さんにとってとても大事な人です。さて、皆さんはまず何をしますか。多くの人が多分こうするのではないでしょうか。部屋の中が散らかっていたら、整理をし掃除をする。お茶やコーヒーやジュースなどの飲み物、あるいはお菓子や食べ物を準備しておく。嫌いなコーヒーじゃなく好きな紅茶にしようとか、あの人は肉ジャガが好きだから煮ておこうとか、そんなふうに考えて準備をする人もいるでしょう。玄関や部屋の中にお花を飾ったりする人もいるかもしれません。とにかく、自分にとって大事なお客さんを、自分の家に迎える準備をするはずです。自分にできる最大限のおもてなしをするために、皆さんはあれやこれやとお客さんを迎える準備をするはずです。

それは、一体何故でしょう。難しい理屈や理由ではないと思います。自分の家を訪ねてくれるお客さんに喜んで欲しいと考えるからではないでしょうか。自分がお客さんとして誰かの家を訪ねるとき、歓迎されれば嬉しいことをわたしたちは知っています。だから、自分の家にお客さんを迎えるとき、心から歓迎して迎えたいと思う気持ちが、掃除をしたりもてなす準備をしたりする行為に表れるのではないでしょうか。どうでもいい人にはおそらくおざなりな準備をし(あるいは全く準備などせず)、なるべく早く帰ってもらうようにするでしょう。自分の家にやって来る人が大事なお客さんだからこそ準備をするのです。

2,靴屋のマルチン

トルストイというロシアの作家が書いた小さな物語があります。『靴屋のマルチン』という絵本として伝わっています。ご存じの方もいるでしょう。簡単にストーリーを紹介します。  靴屋のマルチンは妻を亡くし、一人息子も病気で死んでしまいます。そんなある日、マルチンのところに一人の老人がやって来ます。マルチンは自分の不幸を嘆き、「神さまが本当にいるのなら、わたしのところに来て下さい」と願います。すると、あるとき、声が聞こえるのです。「明日、あなたのところに行くからね」という声でした。神さまの声かもしれない。マルチンは神さまをもてなす準備をします。でも、神さまはなかなかマルチンの家にやって来ません。通りの雪かきをするおじいさんにお茶を飲ませたり、赤ちゃんを抱いて寒そうにしている女性に食事をあげたり、お腹がへってリンゴを泥棒した少年を諭して盗んだリンゴの代金を払ってあげたりということしかおきませんでした。マルチンは神さまが来るから準備をしたのです。が、神さまは来ませんでした。ところが、その夜マルチンは「今日はわたしをもてなしてくれてありがとう」と神さまに言われます。ということはどういうことかわかりますでしょうか。雪かきをしていた老人、赤ちゃんを抱いて寒そうにしていた女性、お腹がへってリンゴを盗んでしまった少年、それが神さまだったということです。

とても大事なお客さんが来るからもてなそうとしたマルチンは、肩すかしをくらったような状態かもしれません。しかし、神さまは「わたしが神さまです」という姿ではマルチンの前に現れなかったということです。歓迎したい、大事なお客さんとしては現れず、本当ならあまり関わりたくないような人としてやって来たと言うことです。もちろんマルチンが関わった人々は、どうでもいい押し売りや何かの勧誘ではありません。寒い日に、困っていたり助けの手を必要としていた人たちです。その人たちを助けるのは、マルチンではなくても良かったのかもしれない。が、誰かが手を差し伸べれば、温かいお茶や食事を与えてくれたりしたら、とても助かる人たちだったのです。マルチンはは寒い中で助けを必要としていた人たちが神さまの姿だとは気づきませんでした。それが大事な人だとはわからないまま、たまたま自分にできるもてなしたということなのでしょう。

3,歓迎されないイエス

2000年昔、イエスはこの世に生まれて来ました。しかし、実のところ、イエスは、その誕生をあまり歓迎されない存在として生まれてきたと聖書は語ります。イエスがこの世に誕生したとき、その誕生を喜んで迎えたのは本当に数少ない人々であったと思われます。イエスが誕生したのは、ユダヤのベツレヘムという町の片隅の家畜小屋であったと言われています。そこには母マリアと父になるヨセフ、そして家畜たちしかいなかったのではないでしょうか。今年のプログラムの表紙には、イエスが母マリアに抱かれているシーンが描かれています。家畜小屋の中、まさに今生まれたイエスと母マリアを家畜たちが見守っているという場面が描かれています。

この、小さな赤ちゃんイエスを歓迎し、家畜小屋に来たのも数少ない人々であったと言います。ルカによる福音書によると、野宿をしていた羊飼いたちです。そして、マタイによる福音書によると、東方から来た占星術の学者たちです。マタイによる福音書はこう記します。《「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。》 ということは、ユダヤ人の王誕生のニュースを聞いてヘロデという王様も、そしてエルサレムという大都会に住む人々もそれを喜ぶことができなかったということです。《不安を抱いた》わけですから、イエスは当然歓迎されてもいません。

この世にやって来たのに、歓迎されない状態。多くの人々がイエスのことをこの世の救い主(キリスト)だとは思えない状態。もっと言えば、「あなたが生まれてきては困る」「あなたがこの世に誕生しない方が良かった」とすら考える人々がいたのです。最たる例は、ヘロデという王様です。自分にとっての邪魔者だと考えて殺そうとまでしました。マタイによる福音書のイエスの誕生物語は伝えます。一握りの数少ない人々の歓迎と、その誕生に変化の兆しを感じ変化を望まなかった人々との対比をです。歓迎と不安とのせめぎ合いの状況を伝えていると思います。本当であれば、歓迎されて誕生してくるはずだったのに、そうではなかった現実を語っているのだと思います。

4,イエス誕生とは喜びの訪れである

わたしたち人間は皆、この世に誕生してきたときに喜ばれ、歓迎される生命です。いなくていい人など一人もいません。「あなたが生まれてきては困る」「あなたがこの世に誕生しない方が良かった」と考えるのは絶対に間違っています。が、今わたしたちの生きるこの社会では、親が生まれたばかりの赤ちゃんを、大人が世話すべき子どもを虐待したり放置したりする、いたましい、悲しいニュースが耳に入ってきます。子どもを愛せない状況まで追いやられた大人たちの苦悩を思い、悲しくなります。そして、自分自身の存在を否定し、自分自身を好きでいることのできない子どもたちの切なさを思い、胸が痛みます。心の中に暗闇を抱え生きざるを得ない人々がいることを、そして、わたしたち自身の心の中にも暗闇があることを思わせられます。

けれども、今日このとき、イエスがこの世に生まれてきたその意味を再び思い起こしたいのです。わたしたちは、イエスの誕生が、わたしたちの生きるこの世界にとって喜びの訪れであることを信じたいのです。その当時の人々は赤ちゃんイエスを歓迎できなかったかもしれない。でも、後になって気づきます。このイエスなる人物がこの世の救い主(キリスト)であったことに後になって気づきました。だからこそ、人々は彼のことをイエス・キリスト(あのイエスはキリストだ)と呼びました。

わたしたちが、もう一度思い起こさなければならないのは、大事なお客さんを迎えるそのわくわくする気持ちです。イエスという大事なお客さんがこの世にやって来る。そのイエスは、わたしたちと同じ人間の姿で、いたいけな赤ちゃんの姿でこの世にやって来ます。彼は暗い現実の中にある人々に喜びをもたらすためにこの世に生まれてきます。悲しみや苦悩に満ちた世界を愛の力によって変えようとしてやって来ます。クリスマスのこのとき、わたしたちはたとえ今悲しく辛い状況にあろうとも、イエスの到来に希望を見出したいと思います。自分にとって大事なお客さんがやって来る。そのような気持ちで、心から喜んで、心から歓迎して、イエスを迎えたいと思います。



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