光は、あなたがたの間にある

宗教主任 石 垣 雅 子

〜聖書の言葉〜

イエスは言われた。「光は、いましばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこに行くのか分からない。光の子となるためには、光のあるうちに、光を信じなさい。」

日本聖書協会『新共同訳 新約聖書』 ヨハネによる福音書12章35−36節

I

子どもの頃の夢は何でしたか。小さかったあなたは「大きくなったら何になるの?」と誰かに尋ねられたとき、どう答えていたでしょうか。「お花屋さん」、「お医者さん」、「幼稚園の先生」だとか「プロ野球選手」「サッカー選手」とか答えてはいなかったでしょうか。だいぶ前のことですが、あるクラスで授業のときに「子どもの頃何になりたかったか」と聞いてみたことがありました。答えの中に「セーラームーン」というのがありました。なつかしかったです。その生徒が子どもの頃「月に代わってお仕置きよ!」というのがはやっていたのですね。

子どもの頃はみんな、何にでもなれる気がしたはずです。願えばかなえられる気がしたはずです。でも、誰もが人生の途中で能力や経済力や運に限界があることに気づかされるのです。こう言っているわたしも子どもの頃のなりたいものは決して教師や牧師ではありませんでした。大人になったわたしは考古学者になってエジプトやメソポタミアやギリシアで発掘をしているはずだったのです。それが子どもの頃の夢だったのです。ところがどこで違ってしまったのでしょう。子どもの頃絶対なりたくないはずだった学校の先生になってしまいました。後悔はしていないのですが、不思議なものだと思います。

どんな人の人生もいくつかの偶然が重なってできあがっています。そして、偶然には決して望まないような出来事も含まれています。全て自分が思い描いた通りに歩んでいる人がいたとしたら、それはよっぽど意志が強くて強運で能力のある人だろうと思います。わたしも含めて凡人は「こんなはずじゃないのに」と思いながら、偶然に引きずられつつ生きているのだと思います。後で考えてみれば、「これで良かった」と思えるようなことでも、渦中にあるときには「こんなはずじゃないのに」と思うことの方がずっと多いのです。

でも、これはわたしたちだけではなく昔々の人々でも、あるいはクリスマスという出来事においても同じです。イエスの母となったマリア、父となったヨセフは「こんなはずじゃないのに」と言いたかった一番の人だと思います。マリアとヨセフはもうすぐ結婚する一組のカップルです。それなのに、結婚を控えたマリアが妊娠してしまうのです。天使ガブリエルがマリアのところにやって来て「あなたは妊娠しています」と告げるのです。マリアは困ります。当然です。皆さんが自分に置き換えてみても困るはずです。愛する結婚相手の子どもを産みたいと考えていたときに、神によって強制的にイエスの母にさせられようとしているのです。《どうしてそのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。》とマリアは天使に言います。マリアの戸惑いが示されています。「こんなはずじゃないのに」「あり得ない」という気持ちが伝わってきます。

何故マリアがイエスの母に選ばれたのかわかりません。でも、マリアはこの場面の最後に天使に言います。《お言葉どおり、この身になりますように》と。これは、「わかりました。今お腹の中にいるこの子を産みます」という決意です。そして、ヨセフもまたマリアと結婚をし、イエスの父となる決意をするのです。マリアとヨセフの身に起こった偶然はとんでもないことでした。こんなことが起こるはずがないということが起きてしまったのがイエスの母マリアと父ヨセフの人生に起きた偶然でした。二人とも、もちろん子どもの頃には思い描いていないことだったと思います。

II

イエスの誕生を知りベツレヘムの町までやって来た人々にとっても同じだろうと思います。イエス誕生の知らせを聞きイエスを見に来たのは、マタイによる福音書には占星術の学者たちであり、他方ルカによる福音書によれば野宿をしていた羊飼いたちだったと記されています。占星術の学者たちは東の方からはるばるやって来ました。「東の方」と書いてあることから彼らが異邦人、すなわち外国人であったことがわかります。「ユダヤ人の王」なる存在が生まれるとの星の知らせを受け、わざわざ遠い東の方からやって来たわけです。野宿していた羊飼いたちは、羊の世話をしているある夜に天使からの知らせを受けてびっくりします。あわてて、とりあえず必死になってベツレヘムまですっ飛んで来たわけです。羊飼いとは野原で羊の世話をする過酷な労働をせざるを得なかった人々です。さらに、当時の社会の中で差別を受け馬鹿にされていた仕事でした。

そんな彼らがベツレヘムの町で巡り会ったのは、生まれたばかりの赤ちゃんイエスと母マリア、父ヨセフでした。《布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである》とルカによる福音書は語ります。家畜小屋であったろうと言われています。誰でもできることなら清潔で衛生的な場所で赤ちゃんを産みたいと考えるのが当然です。それなのに、あまり清潔でも衛生的でもなくむしろ汚くてぼろぼろで粗末なところでイエスは生まれてきたのです。マリアとヨセフは思ったはずです。「何でこんなことになるの。こんなはずじゃないのに」「天使が神の子だって言ったのに、どうしてこんな汚いところで出産しなきゃならないの」と。

占星術の学者たちもエルサレムという都会へ行ってその辺の「偉い人」に聞いたらすぐにわかるだろうと考えていたのに、あてがはずれます。ベツレヘムという田舎の町で生まれたらしいというのです。だから、ベツレヘムまで行き何とか探し当てます。羊飼いたちは《布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう》と天使に告げられます。およそ救い主誕生にはふさわしくない汚い場所で眠っている赤ちゃんがその子だと言われて何とか探し当てるわけです。常識で考えてみればあり得ないような場所で、あまり注目されることもなく静かにイエスは誕生したのです。「こんなはずじゃないのに」と考えるような現実の中で誕生したのがイエス誕生、クリスマスという出来事だったのです。マリアもヨセフも、占星術の学者たちも、羊飼いたちも「何で」「こんなはずじゃないのに」と考えただろうことがイエス誕生という出来事だったとわたしは想像するのです。

けれども、同時にわたしは、イエス誕生物語に登場してくる人々は「こんなはずじゃないのに」でとどまっていた人々ではなかったことに気づきます。こんな汚いところで生まれた赤ちゃんが救い主なはずがないとか、もっと立派なところで生まれてくれば良かったのになどとは思わなかったらしいのです。「こんなはずじゃないのに」を越えて、「これこそ救い主だ」と信じるに至っているのです。占星術の学者たちは、《その星を見て喜びにあふれた。》《ひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた》とあります。羊飼いたちも《この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた》と書いてあります。贈り物を献げずにはおられなかったし、人々に伝えずにはおられなかったのだということです。会えて嬉しかったと、これこそ救い主だと、希望の訪れなのだと信じたことがこれらの言葉には示されていると思います。

III

お客様にお配りした献金のお願いの中にも書かせていただきましたが、今年一年、残念なことに、暗いニュースばかりが印象に残りました。自分の次の世代に夢や希望のある未来を受け継がせたいと願っているのに、暗くて悲しいニュースばかりが報道される日々が繰り返されています。この経済状態の中で夢や希望を持つことが難しくなっている現実を突きつけられています。誰もが自分のことだけで必死にならざるを得ないような現実です。他人に対して優しくすることが難しいような現実です。「こんなはずじゃないのに」とみんな思っています。政治家と呼ばれる人々も、そしてわたしたちもです。

でも、だからといって悲観しているばかりではいけないと思います。2000年前ベツレヘムという町の片隅で生まれてきた一人の赤ちゃんがそのことをわたしたちに教えてくれています。全く無力で、自分では何をすることもできず、親の世話にならなければならない赤ちゃんでした。この赤ちゃんの誕生にもいくつかの偶然が重なったのだと思います。みんな「こんなはずじゃないのに」と一度は考えた汚く粗末な場所に生まれてきた赤ちゃんでした。けれども、この赤ちゃんはみんなの希望となりました。2000年もの間、語り継がれ、その誕生が祝われ続けてきました。わたしたちも今日またそのことのために集まっています。

《光は、いましばらく、あなたたちの間にある》とヨハネによる福音書は告げます。わたしたちの生きる現実がどのように暗かろうが、光はあるのです。わたしたちが未来に対して希望を失わないで日々生きるなら、光はわたしたちの間にあるのです。たとえ「こんなはずじゃないのに」という現実がいくら展開されようとも、あきらめてはいけないと思います。子どもの頃見ていた夢から遠く離れた中に生きているかもしれない大人たちに、まだまだ夢を見て自分の可能性にかけられる子どもたちにも神からの光は与えられます。クリスマスのこのとき、わたしたちは神から与えられる光を受け、それぞれの人生を輝かして生きていきたいと願うものです。



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