今日こそ、主の御業の日

宗教主任 石 垣 雅 子

〜聖書の言葉〜

今日こそ主の御業の日。今日を喜び祝い、喜び踊ろう。  どうか主よ、わたしたちに救いを。どうか主よ、わたしたちに栄えを。

旧約聖書 詩編118編24−25節

人生の意味

 皆さんは自分の人生の意味を考えたことがありますか。
 ときどきわたしは廊下ですれ違う生徒の皆さんに「人生の意味って何だ?」と尋ねてみることがあります。すると、だいたいはとても怪訝そうな顔をします。わたしもその場ですぐに答えて欲しいわけではありませんので、「ゆっくり考えてみなさい」とか言って終わりにするわけです。「人生の意味とは何か」ということについては、人それぞれの答えであってかまわないと考えています。でも、このように正解が一つではないことを考えるのは生徒の皆さんにとっても、大人であるわたしたちにとってもすごく難しいことなのだとも思っています。

 この世の中では、なるべく早く何かをなし遂げることが一番なのだと考えられています。そして、正しい答えは一つしかなくて、それ以外は間違った答えなのだと考えられています。もちろんそれで良い部分もあります。が、わたしたちの生き方や人生ということについても、間違わないこと、早く答えを出すことをせかされているようなところがあるのではないでしょうか。人様に恥ずかしくない生き方を、道を踏み外さない生き方を選び取ることを求められます。それが人生の正解だとみんなが信じこんでいるからです。

 でも、本当にそうなのでしょうか。もしかすると、「1+1=2」という答えだけではなく、「1+1」の答えは何通りもあるのではないでしょうか。2という答えだけで良いのでしょうか。わたしたちの人生には時間をかけて自分自身の答えを出していかなければならないことはたくさんあるのではないでしょうか。他人にどう見えるかよりも、自分がどうしたいのかを大事にしなければならない場面がたくさんあるのではないでしょうか。答えをすぐに出すことよりもゆっくり時間をかけて考え続けていくことが大事だということも多いのではないでしょうか。

 あるいは、人生のある一場面で何か大事なことに気づかされることもあるのかもしれません。ずっと考え続けてきたことの、自分なりの答えはこうなのかもしれないとはっと気づく瞬間があるのかもしれないと思うのです。決してそれはプラスの出来事とは限りません。すごく後悔した、嫌な思いをしたというようなマイナスの出来事であるかもしれません。でも、人生には誰でも忘れられないそのときというのがあるのだと思います。そして、その出来事の中から自分にとって大事な何かを気づかされ、考えさせられ、学ばせられるのではないでしょうか。誰にでも「人生の意味とは何か」ということのヒントを得るような、そんな瞬間が必ず与えられているのだとわたしは考えているのです。時間はかかるし、手間もかかるし、とても苦しいことなのかもしれませんが、わたしも皆さんも「人生の意味とは何か」考え続けていかなければならないことだと思っているのです。

羊飼いの現実と現代の羊飼いたち

 今日わたしが注目したいのはルカによる福音書に登場している羊飼いたちです。当時のイスラエル社会において、羊飼いというのは汚れた仕事であり、軽蔑されていた職業の一つです。律法という当時絶対とされた決まり事によって、差別され疎外されていた人々です。想像してみて下さい。羊はどこにいますか。何を食べますか。家の中にいて出来る仕事ではないのです。草のある場所、水のある場所を探し歩きながらしなければならない仕事です。住む家を持ってはいません。羊の世話をしながら野宿するのが日常です。「人生の意味とは何か」と聞かれても、おそらくは答えることのできなかった人々です。

 そんな大変な仕事やめればいいじゃないかと皆さんは考えるかもしれません。別な仕事をすれば良いと。けれども、今わたしたちが暮らすこの国の現実とは全く違うのです。職業選択の自由なんてものはありません。努力や能力で何とかできる社会ではなかったのです。自分が生きていくために、あるいは家族を養うために、何でもやらなければならなかったのです。仕事があるだけましだったのです。どうにかして食べ物を手に入れなければならない人々がたくさんいたのです。差別されようが、軽蔑されようが、きつい仕事であろうがやらなければならなかったのです。

 わたしは、現代のこの世界の中にも羊飼いたちと同じような状況に生きざるを得ない人々がいることを思います。先日読んだ本はとてもショックでした。それはこの世界の中で子どもたちがどのように扱われているのかを書き記した本です。わたしたちの生きるこの世界には、13や14、ひどい場合は10歳未満で売り飛ばされる少女たちがいるのです。少女を売ることで家族にいくばくかのお金が入る。その少女たちが何をするのか。売春をさせられるのです。そして、その少女たちのうち多くは、やがてエイズに感染し、若くして死んでいくというのです。あるいは、本当に安い賃金で一日10時間、毛くずを吸いこみながら、染料を浴び続けながら、絨毯を織り続けている子どもたちがいます。絨毯織りの作業のために肺や目や指先を痛めて、障がいを負ってしまう者もおり、若くして死んでしまう場合もあるというのです。それらの子どもたちは、したくてそういう生き方をしているのではありません。自分や家族が生きていくためにそうせざるを得ない人々です。とても残念なことですが、自分自身が願う人生や自分自身を本当に大切にできる現実の中で生きられる人々ばかりではないのです。

 もちろん、今ここにいるわたしたちの多くはそのような状況にはいません。そして、そのような現実を知ったとしても、「ふーん、そうなんだ」で終わってしまうことでしょう。あるいは、かわいそうな人々がいると心を痛めるだけで終わってしまうのかもしれません。もっと言えば、自分たちとは関係のない人々だと想像すらしないことも可能です。でも、今少しだけ想像して下さい。自分の家族や自分自身の食べ物のために身体を売らなければならなかったり、自分自身が生きるために劣悪な環境の中で自分の健康を損ないながら働かなければならない状況をです。さらに、もし自分自身がそうであったならと想像してみて下さい。一体どんな思いで生きているだろうかと考えてみて欲しいのです。

 もし多くの人々がそのことを想像できるならば、この世界はもう少し良くなるのではないかと考えることがあります。思いやりや愛がもう少しある世界になるのではないかと思うのです。自分の知っている人や関わりあいのある人にやさしくすることはあまり難しくないのかもしれません。でも、この世界に生きる大部分はわたしたちが名前も知らない人々です。名前も知らない人々の中には、過酷で劣悪な現実の中に生きざるを得ない人々もいるのです。わたしたちはそうではないからそれで良いとはしてしまいたくないのです。それぞれ考え続けて、想像してみなければならないとわたしは思います。

今日ダビデの町で、あなたがたのために

 さて、野原で野宿していた羊飼いたちも先に述べたように過酷で劣悪な現実の中に生きざるを得ない人々でした。おそらく「どうせ自分たちなんて」と考えざるを得なかったのではないでしょうか。しかし、羊飼いたちに、ある夜、天使から知らせが告げられます。「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」というのです。「どうせ自分たちなんて」と思っていた人々に対して神の語りかけが与えられるのです。その語りかけとは、誰にも顧みられることなく生まれてきた救い主イエスを見に行きなさいということでした。この世の救い主イエスは「宿屋には泊まる場所がなかった」と書いてありますように、粗末でみすぼらしい場所で生まれてきたのです。「布にくるんで飼い葉桶に眠る」赤ちゃんとして生まれてきたのです。

 わたしは「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」という言葉に注目しています。今日なんだというのです。昨日でもない。明日でもないのです。今日なのです。まさにそのタイミングを逃しては取り返しがつかないとでも言うかのごとく、今日ということを強調するわけです。加えて、あなたがたのためにとも語っています。あなたがたとは羊飼いたちのことです。過酷で劣悪な環境の中、差別と疎外の現実におかれながら、それでも生きるためにその仕事をしなければならなかった羊飼いたちのために、救い主が生まれたんだと天使は告げるのです。

 そして、羊飼いたちはその知らせを信じてすぐにベツレヘムまで急いで行くのです。「嘘だったらどうしよう」とは考えなかったのでしょう。「今は忙しいから」とか「めんどくさいから明日にしよう」とも思わなかったのでしょう。ぐずぐずしないのです。素直に信じて、素早く行動したのです。「どうせ自分たちなんて」と考えていた人々が、救い主イエス誕生の最初の目撃者となったのです。羊飼いたちの人生は意味を与えられたのです。おそらく羊飼いたちにとって一生忘れられない、かけがえのない一場面となったのではないでしょうか。

 わたしは、この羊飼いたちの姿を想像してみるとき、自分自身のことをすごく反省させられるのです。これまでわたしは、たくさん他人を疑ってきました。否、自分自身をさえ疑い、自分自身を信じることができなかったことがありました。そして、忙しいとかめんどくさいとか言い訳をして、今すぐに行動しなければならないことを後回しにしてしまったこともたくさんありました。絶対にしてはいけないことをしたこともあります。だから、後悔していることがたくさんあります。わたしはこれまでの人生において、本当に大事なタイミングを自分では気づかないうちに、あるいは気づいていたのに、逃してしまったことがあったのだと思うのです。

 でも、時間を取り戻すことはできません。人生をリセットすることはできないのです。これは皆さんも同じです。おそらく、皆さんも本当に大事なタイミングを見極めることができずに、チャンスを逃してしまったことがあっただろうと思います。こうすべきだったのにできなかったこと、こうすべきではなかったのにしてしまったことがあっただろうと思うのです。そして、それ故に後悔したり、自分を責めたりしたことがあっただろうと思うのです。あるいは、そのときがまだ来ていないのに急いで答えを出そうとして、これが正解なんだと信じこもうとしてしまったこともあるかもしれません。他人が出した答えを真似して、自分もそう考えるとしてしまったことがあるかもしれません。時間をかけなければならないのに、ゆっくり待つことができなかった故にです。

 そんなわたしたちに対して、聖書は語ります。「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」と。今日なのだと。このタイミングを逃してはもう出会えない、今でなければ駄目なのだと。クリスマスとは、イエスがこの世界に生まれてこなければならなかったその瞬間なのです。神さまはそのタイミングでなければならないと、マリアとヨセフの子どもとしてイエスをこの世界に生まれさせたのです。昨日ではなかった。明日では間に合わない。今日なのです。今日生まれたのです。この世界とわたしたちを愛する神は、この世界とわたしたちのために愛する一人息子を一人の人間として生まれさせたのです。クリスマスと呼ばれるそのときにです。そして、このイエスという存在はわたしたち人間を愛し、支えようとその生涯を送りました。最後には十字架につけられて殺されてしまいます。でも、その生命を賭けてこの世界とわたしたちを愛し続けたのです。わたしたちそれぞれの人生を導き励まして下さろうとしたのです。

 詩編の詩人はこう語っています。「家を建てる者の退けた石が、隅の親石となった。これは主の御業、わたしたちの目には驚くべきこと。今日こそ主の御業の日。今日を喜び祝い、喜び踊ろう。」と。捨てられるような、役に立たないようなそんな石が役目を与えられて親石として用いられるのだというのです。誰にも顧みられないようなそんな存在が意味を与えられ生かされていくことこそ神さまのなさる不思議な御業なのだというのです。

 この世界に生きている人間の中に意味のない人生を送っている人などひとりもいません。たとえどんなに劣悪な環境の中にいようともです。神さまは、わたしたちひとりひとりを意味ある存在としてこの世界に生まれさせて下さったのです。クリスマスのこのとき、わたしたちは「人生の意味とは何か」ということについてそれぞれ深く思いを巡らしたいと思います。答えはそんなに簡単には出ません。正解も一つではありません。でも、考え続けていきたいと思います。今日という日は人生の中でもう二度とないからです。 



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