わたしたちに示される愛

宗教主任 石 垣 雅 子

〜聖書の言葉〜

神は独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。

新約聖書 ヨハネの手紙一 4章9節

1.信じることの難しさ

わたしは生徒の皆さんに「将来どんな人間になりたいか」ということを考えながら生活して欲しいと願っています。そのことを考えてみることは、目標や夢や希望につながっていると思うからです。何も、将来なりたい職業を答えて欲しいわけではありません。自分が人間として「こういう人間でありたい」という、自分のあり方を考えて欲しいからのことです。先日あるクラスの授業で「どんな人になりたいか」を考えてもらうために「どんな人になりたくないか」を考えてもらいました。生徒の皆さんは割と真剣に答えてくれました。その答えの中で「他人に信頼されない人にはなりたくない」という答えが目立ったのです。裏を返せば「他人に信頼される人になりたい」ということだろうと思います。

自分が信じるに値する人間でありたいということはどんな人でも考えることなのだと思います。わたしたちは誰かに自分を信じて欲しいから、まわりに信頼できる人々を求めます。生徒の皆さんの場合、自分と意見の合う人、自分の考えを受け入れてくれる人を身近に探します。「この人は自分に合う」とか「あの人は自分に合わない」とかそんなことを言ったことのある人は多いでしょう。大人でも多分同じです。自分にとって心地よい存在を求め、それらの人々と信頼関係を結ぼうとするわけです。もちろん心が通じ合うそんな人間関係が築けることはとても素晴らしいことです。わたしたちはそのような人間関係に支えられ、お互いに信頼し合いながら生きていくことができます。わたしたち人間が、お互いに信じ合い、信頼し合いながら生きていくことができたなら本当に素晴らしいだろうと思います。

しかし、残念なことにわたしたちが生きているこの時代は、人々がお互いに信じ合えず、心がうまく通わない現実を抱えています。人をだましたり、人の裏をかいたり、人を意識的に傷つけたり、あるいは人を殺してしまったりというようなことが起きています。今年を振り返ってみると、イラクで武装グループに拉致された日本人がいましたが、その家族たちに対する嫌がらせは大変露骨なものでした。「自己責任」という言葉が一時期とてもはやりました。あるいは、「北朝鮮による日本人拉致問題」だけがマスメディアで取りざたされていますが、そのニュースの裏で日本に住む在日韓国・朝鮮人の人々に対する嫌がらせが何件も起きています。チマチョゴリ(韓国・朝鮮の民族衣装)を着て学校に通う民族学校の学生たちに「朝鮮へ帰れ」「誰のおかげで日本に住まわせてもらっているんだ」というような罵詈雑言を浴びせかける人々が後を絶たないと聞きます。

わたしは、そんなニュースを知る度に、こう考えるのです。わたしたちが生きるこの時代とは、知らない誰かに優しくすることが難しい時代になってしまったのかもしれない、と。自分につながりのない誰かを信じないようにして、だまされたり傷つけられたりしないようにしなければならない。あるいは、知らない誰かは傷つけても良いけど、自分自身は傷つかないようにしないといけない。自分たちが信頼できない人々は非難されようとも排除されようとも仕方がないのだ。知らない誰かに冷たくするのは当然のことなのだ。だって、自分を守らないといけないのだもの。嫌な人や嫌いな人にはちょっと意地悪をしても良いんだ。優しくするのは仲良しな人だけで良いのだ。自分に合う人たちとだけ仲良くしよう。そんな考え方が当然のようになされているように感じられるのです。

人が人を信じることの難しさを思います。この人はこう言っているけど裏ではどう考えているんだろうと勘ぐってしまう。あの人に気にいられるように自分を取り繕ってかりそめの自分を演じてしまう。やはり裏切られるのが怖いからです。信じた結果が裏切りであったら人を信じることに臆病にならざるを得ないでしょう。誰だって自分がかわいいし、自分が大事です。そうなると、どうやって自分を守るかという問題になります。本当の思いやりを持つことは難しく、自分が傷つかないようにとだけ考えてしまうことでしょう。誰かを信じたふりをしたり、信じるに値する人間のふりをしたりして体裁を整えたりすることでしょう。一人では生きられないわたしたちだから、誰かとつながることを求めて仲良しを探し求めてしまうのでしょう。そして、つながっているふりをして、信頼関係がそこにはあるのだと思いこんで生きようとしてしまうでしょう。

2.クリスマスの不思議さ

ところが、クリスマスとはそんなことを度外視した神さまの計画から始まる出来事です。わたしたちの思いをはるかに越えるような出来事です。というのは、神さまの一人息子がこの世界にやって来るというのがクリスマスだからです。神さまの一人息子はどうやってこの世界にやって来たのかと言えば、乱暴な言い方をすると、人間の子どもとして産まれてくるのです。マリアとヨセフという一組の夫婦に与えられた赤ちゃんとしてこの世界に生まれてくるのです。ルカによる福音書によれば、「宿屋には彼らの泊まる場所がなかった」と言います。神の子イエスは、宿屋にも泊まれなくて粗末な場所で一晩を過ごさざるを得ない一組の夫婦から産まれてきたのです。さらに、ルカによる福音書は、産まれたばかりのイエスは「布にくるんで飼い葉桶に寝かせた」と、包んだのは布であり、馬や牛のエサをやるバケツの中に産み落とされたと語ります。布というと、きれいな印象を受けますが、ここで布と言われているのはおしめのようなそんな粗末な布きれのことです。おしめが必要な普通の赤ちゃんとして、粗末な飼い葉桶の中にイエスは生まれたのです。親の世話がなければ生きられない赤ちゃんとして、誰も注目しないそんな中で、神さまの一人息子は生まれてきたのだと聖書は語るのです。

わたしは、神の子イエスが人間の子どもとして産まれたことの意味を考えます。そして、わたしたちもまたイエスのようにして産まれてきたのです。母親が必死の思いでこの世界に産み落としたのです。一つの新しい生命として、母親の中から産まれ出でたのです。もちろん飼い葉桶の中に産まれたのでも、粗末な布に包まれたのでもないはずです。わたしたちは病院の衛生的な環境の中に、多くの人々の祝福と共に産まれてきたはずです。きっと立派に育つだろうという期待と信頼のもとに産まれてきたはずです。産まれたばかりのときは、何もできませんでした。おしめを代えるのも、ミルクを与えるのも誰かがやってくれたことです。わたしたちが今生きてこられたのは、世話してくれた人々がいるからのことです。それらの人々を信じる他なく、それらの人々がわたしたちを育ててくれたからここにいるのだということです。わたしたちの成長を期待し、わたしたちを慈しみ育ててくれた人々がいるのです。

わたし自身のことをお話するのは恥ずかしいのですが、わたしはもしかするとここに立ってはいなかったかもしれませんでした。というのは、わたしは産まれてすぐに大きな病気をしたのです。もしかしたら足を失うかもしれないというような病気でした。わたしの母は思い悩んだそうです。が、父が「足がどうであろうと生きていればいい」と母を励ましたのだそうです。おかげで今わたしはここにいます。もし、わたしの母親がもう駄目だどうしようもないと考えたとしたら、父も仕方ないと考えたとしたらわたしはここにはいなかったかもしれないのです。わたしの母も父も、産まれたばかりのわたしを信じたのです。どうあろうとも自分たちの子どもだと思ったのです。今は産んでくれて育ててくれて、本当にありがたいと思って感謝しています。

神の一人息子が全く無力な誰かにお世話してもらわなければならない赤ちゃんとして生まれてきた。わたしたちと同じようにして生まれてきた。何故そうだったのでしょうか。どうして神はそのようにしたのでしょうか。イエスはマリアとヨセフという一組の夫婦のもとに生まれてくるわけですが、これはマリアとヨセフをのみを信じて生まれてきたのではないと思います。この世界を、そしてこの世界に生きる人々を信じて生まれてきたのだと思います。もっと言うならば、「人間って素敵だ」からこそ生まれてきたのだと思います。「人って捨てたもんじゃない」からこそ生まれてきたのだと思います。「人間って良いものだ」からこそイエスは人間として生まれてきたのだと思います。「人間って素敵だ」「人間って良いものだ」と考えた神さまが、人間としてこの世界に遣わしたのが一人息子のイエスだったということです。

3.神の信頼、神の愛

そこにあるものは信じるということです。信頼ということです。そして、信じるとはその存在を肯定し、認め、愛するということだと思います。ヨハネの手紙はこう語っていました。「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。」神さまがわたしたち人間を肯定し、認め、愛して下さっている。それはイエスがこの世界にやって来たことでわかるんだと語っているわけです。神さまがこの世界を愛する、わたしたちを愛するとは、この世界とわたしたちが良いものであると認めて信じてくれているということなのです。だまされることなんて考えてもみない。裏切られることなんて思ってもみない。傷つくことなんて想像もしていない。まさに、赤ちゃんが自分の親を全面的に信頼するかのごとくに、親が自分の赤ちゃんを見返りを求めずに愛するかのごとくに、神さまはわたしたちを信頼し愛してくれているのだというのです。

クリスマスとは、そのような神の深い信頼から始まった出来事なのだと考えます。そして、成長したイエスがその生涯を賭けてやり抜いたことも「人間って素敵だ」「人って捨てたもんじゃない」ということを人々に具体的に示すことだったのだと思います。彼が伝えようとしたもの、あるいは示そうとしたものは、人々が神の愛に気づき、そしてお互いに愛を持ってつながっていくことだったと思います。福音書にはそのような彼の姿が描かれています。彼は最後には権力者たちによって抹殺されますが、死ぬまで一貫してその姿は変わることがなかったと思います。

神さまのわたしたちに対する深い信頼から始まったイエス誕生の出来事は、彼の短い生涯を経て2000年たった今もなおわたしたち人間に大きな影響を与え続けているのです。わたしたちを信じ、わたしたちを愛する神さまからイエスが遣わされ、この世界に生まれてきたからこそクリスマスがあります。もしイエスがいないままで祝われるとしたらクリスマスは何の意味も持たない馬鹿騒ぎをする日になってしまうことでしょう。わたしたちが今ここに集まっているのもむなしいことになってしまうことでしょう。

わたしたちの今の現実、そしてこの世界で起きている様々な出来事を考えてみるとき、お互いに信頼し合えずに起きる悲劇の多さに嘆きたくなります。思いやりの欠如や、自分さえ良ければというような自己中心的な思考の数々に悲しくなります。誰もが余裕を失って人に優しくすることが難しい時代なのかもしれません。しかし、たとえそうであったとしても、わたしたちはそれで仕方ないとあきらめてはならないのです。わたしたちは信頼や愛のない世界を絶対につくり出してはならないのです。「人間って素敵だ」「人間って良いものだ」と思えるような世界をつくり出したいのです。神が望む世界、イエスがつくり出そうとした世界もそうであったと思います。クリスマスにあたり、様々な人々を信頼し、様々な人々に信頼される。様々な人々を愛し、様々な人々から愛される。そのようなつながりある世界をつくり出したいと願います。まずわたしたちからそのことを始めたいと願います。



弘前学院聖愛高等学校
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