闇の中の大いなる光

宗教主任 石 垣 雅 子

〜聖書の言葉〜

闇の中を歩む民は、大いなる光を見
死の陰の地に住む者の上に光が輝いた。

旧約聖書 イザヤ書9章1節

1.ポインセチアと戸惑い

 クリスマスのシーズンになると飾られる花の一つにポインセチアがあります。あの赤い部分は花ではなくて葉なのだそうです。夜が12時間以上ないと赤く色づかないので、おおいをかぶせて育て、赤くなったものを出荷するのだとのことでした。そして、ポインセチアの赤い色はイエス・キリストが流した血の色であると言われているのです。イエスが生まれたことを祝うのがクリスマスです。救い主誕生の喜ぴを皆で分かち合うというめでたいこの時期に血の色をした植物が飾られる。一体どうしてこの時期にイエスが流した血の色のポインセチアなのでしょう。少しわたしを戸惑わせます。

 クリスマスというのは「どうして」と間うような戸惑いの出来事ではじまっているのかもしれません。聖書によりますと、クリスマスの一番最初の出来事はマリアに対する「受胎告知」です。マリアに天使ガブリエルからイエス妊娠の知らせが告げられるのが「受胎告知」です。マリアにとっては身に覚えのない妊娠でしたから、彼女は非常に戸惑うわけです。彼女は、もう間もなくヨセフと結婚するというときになって自分が神によって妊娠させられたことを告げられるのです。女性の方はもし自分がマリアだったらと考えてみて欲しいと思います。あるいは、男性の方はそんなマリアを受け入れられるでしょうか。とても難しく厳しい決断を強いるものだと思います。マリアもヨセフも「どうして」と思わず口にしたのではないでしょうか。でも、マリアは最終的にはその知らせを受け入れイエスの母親となるのです。

 しかし、このようなことはわたしたちにも起こり得ることなのだと思います。もちろんマリアとヨセフの場合のように過酷すぎるほどの運命ではないかもしれません。けれども、わたしたちはそれぞれの人生において、考え、戸惑い、嘆き、苦しまざる得ないようなことを経験することがあるのだと思います。「どうして」と問わざるを得ないことがあるのだと思います。望まない道を選ばざるを得ず、そこを歩まなくてはならいことがあるのだと思います。そのようなときのことをわたしたちは絶望と呼んだりします。絶望とは、希望の光が見えない暗闇の中を歩くことだと言えるのかもしれません。

2.イエスが生まれたころ

 イエス・キリストが生まれた2000年前のユダヤの人々も暗闇の中を歩いていたのかもしれません。当時のユダヤを支配していたのはローマという強大な帝国でした。ユダヤ人にとっては自分たちの国が他国によって支配されている状態だったわけです。当然のこととして過酷な搾取が行われ、反乱や抵抗は強力なローマ軍によって鎮圧されました。ユダヤ人たちにとって「どうして」と問いかけたくなるような時代だったことでしょう。戸惑うというよりは、誰もが希望の光を見出すことができずに、あきらめが満ちあふれる社会が展開されていたのではなかったかと想像します。

 そのような2000年前のユダヤに生まれてきたのがイエスです。母マリアが戸惑いを越え、過酷な運命の中から産み落とした男の赤ちやんでした。彼の出産はベツレヘムという片田舎の町のその片隅で起きた出来事でした。「宿屋には彼らの泊まる場所がなかった」と書いてあるところから、家畜小屋での出産であったのではないかと言われています。そして、生まれたばかりのイエスを見に来た人々は、ル力による福音書によれば、羊飼いたちでした。野原で羊たちの番をしながら野宿する生活を送っていた人たちです。この羊飼いたちもまた戸惑ったはずです。戸惑って当然だったはずです。羊の番をしながら野宿しているそんなある夜に、突然天使がやって来て救い主誕生のニュースを告げるのです。びっくりしたはずです。でも、彼らのすごいところは「今日、ダビデの町であなたがたのために救い主がお生まれになった」と知らされてすぐに見に行ったということです。ぐずぐずしないのです。戸惑いを越えて、すぐに行動しているのです。

 羊飼いたちというのは当時のユダヤにおいて汚れた者として差別を受けていた人たちでした。律法という決まり事を守ることができないとされ、人々から疎外されていた人たちです。べツレヘムの町の片隅の粗末な場所で生まれたのがイエスであり、イエスを見に来た人々もまた当時の片隅に追いやられているような人たちであったわけです。言うなれば、彼らもまた暗闇の中に生きることを強いられていた人々であり、そのような人々に対して「今日、ダビデの町であなたがたのために救い主がお生まれになった」と告げられるのです。つらく、苦しく、厳しく、悲しい現実の中に生きていた人々にイエス誕生の知らせが一番最初に告げられたのです。そして、その知らせにすぐに応えて羊飼いたちはベツレヘムの町までイエスを見に行くのです。

3,戸惑いを越える

 わたしは、羊飼いたちもマリアと同じように戸惑いの出来事を越えていった人々なのだろうと考えるのです。戸惑いを越えるというのは難しいことです。自分が戸惑っていることと向き合わないとできないのだろうと思います。考えることから逃げたり、目を背けたりしたら越えられないのでしょう。しかし、そこを越えることによってしか見えないものもあるのではないでしょうか。自分自身踏み出せないと思っていた一歩を踏み出したりすることもあるのではないでしょうか。

 というのは、わたし自身の経験でもそうであったからです。わたしは第一志望の大学に入ることができませんでした。浪人した上に大学受験に失敗して、失意の中第二志望の大学に入学せざるを得ませんでした。ですが、今現在わたしが牧師という仕事を生業にしているのは第二志望の大学に入ってキリスト教を勉強したおかげです。弘前という町に住んでいるのもそうです。北梅道で教会の牧師を続けたいと思っていたにもかかわらず、その願いはかないませんでした。その度ごとにわたしは戸惑いました。思うようにならない人生を嘆きました。しかし、今考えてみると、戸惑う現実の中で、思うようにならない理想の中で、たくさんの助けの手がさしのべられてきたことを思います。そして、それらの手に支えられて、何とか戸惑いを越えてきたことを思います。わたし自身を成長させてくれた大事な出来事であったことを今となって感じるのです。理想や夢が破れてしまえばそこでお終いではないのです。人生が終わってしまうわけではない。道はまた拓けるのです。別な理想や夢ができてくるのです。それを信じて賭けてみる勇気が必要なのだと思います。そのためには何とか戸惑いを越えようとしてみる努力が必要なのだと考えます。今感じている自分自身の戸惑いを棚上げにしてしまったり、戸惑うことから逃げたりしてはいけないのだと思いまず。

4.神の戸惑い

 しかし、クリスマスの時期に最も戸惑ったであろう存在がいたことをわたしたちは今日憶えなければならないと思います。クリスマスという喜びの訪れの陰で、戸惑いながら独り子を差し出した存在のことをです。その存在はわたしたちに神と呼ばれています。イエスというのは神の独り子であり、神はその独り子をこの世界に差し出すわけです。それが神にとってのクリスマスの意味です。

 そして、イエスという神の独り子は極端に言えば死ぬために生まれてくるのです。十字架にかけられて、苦しみ無残な姿で殺されるためにこの世界に遣わされるのです。そんなことがわかっているのに愛する独り子を送り出す親がいるでしょうか。わたしたち人間では考えられません。愛する存在を失うことはわたしたち人間にとって一番考えたくないことなはずです。神の気持ちは想像してみるしかないのですが、きっとそこには戸惑いがあったはずです。とても悲しかったに違いないはずです。それでも戸惑いを越えて、イエスをこの世界に送らざるを得なかったのです。クリスマスとはわたしたち人間にとっては喜びの日ですが、神にとっては戸惑いを越えて結論を出した悲しみの日であったのかもしれないとわたしは思うのです。

 何故そこまでしなければならなかったのか。わたしたちの生きるこの世界を、そしてわたしたちを愛するためにはその方法しかなかったからなのだと思います。神は、自分の最も大切にするイエスを遣わし、この世界に愛を届けるしかなかったのだと思います。おとしめられていた人々に希望を与え、困難な暗闇の中に生きていた人々に光を与えるためには、神は自分の愛する独り子をこの世界に送り、殺されるために差し出すしかなかったのだと思います。

5.愛するとは

 愛するということはそういうことです。自分の感情を押しつけることが愛ではありません。相手を本当に大切に思い、そのためならば、自分が痛い思いをしても傷つくことがあっても、それでも相手を大切にできることです。見返りを求めないことです。自分がこんなにしてあげているのだから相手もこうしてくれて当然だなどとは考えないことです。そんな悲しいまでの思いをきっと愛と呼ぶのだと思います。わたしたちはなかなかそうすることができません。いつも打算や計算が働いてしまいます。

 ポインセチアがクリスマスの時期になると飾られるのは、もしかすると、そのような神の愛を憶えるためかもしれません。暗闇の中に生きる人々に希望を与え、励まし、徹底的に愛し抜いた神を考えるためかもしれません。そして、神の愛する独り子でありながら、この世界に遣わされ、困難な現実の中に生きる人々や虐げられて孤独と絶望を感じていた人々を十字架の上で血を流し死ぬまで愛し続けたイエスの姿を忘れないためなのかもしれません。わたしたち人間を本当に生かすための血を流したイエスの姿を象徴しているのがポインセチアなのかもしれません。

 今日わたしたちの生きるこの世界には様々な悲しむべき現実があります。さらに、わたしたち自身の生活においても色々な戸惑いがあります。何をやっても無駄だと投げ出してしまいたくなったり、自分には関係ないと逃げてしまいたくなることもあります。そのために無力感や絶望感や脱力感に襲われたりすることもあります。そのような感情すら持つことなく心を閉ざしてしまっている人もあります。しかし、わたしたちの生きる世界にイエスを遣わした神がわたしたちを愛して下さっているのです。わたしたちは、大切な独り子に血を流させるまでしてしまう神に支えられてそれぞれの人生を今歩んでいます。その愛に応えたいと思います。その愛に応えて、たとえ今どんな暗闇の中にあったとしても、見えてくる光に目をこらしてその光を目指して歩んでいきたいと願います。



弘前学院聖愛高等学校
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