わたしの灯を輝かし

宗教主任 石垣 雅子

聖書の言葉

あなたの慈しみに生きる人に  あなたは慈しみを示し 無垢な人には無垢に 清い人には清くふるまい 心の曲がった者には背を向けられる。 あなたは貧しい民を救い上げ 高ぶる目を引き下ろされる。 主よ、あなたはわたしの灯を輝かし 神よ、あなたはわたしの闇を照らしてくださる。

日本聖書協会『新共同訳 旧約聖書』詩編18編26-29節

I

皆さんの目標は何ですか? まだ進路の決まっていない高校3年生にとっては「進路決定」が今の目標かもしれません。あるいは、自分が将来就きたい仕事につくことが、今の目標だと考えている人もいることでしょう。高校総体で優勝したいとか、甲子園に出場したいとか、そう考える運動部の人もいるかもしれません。将来のことなんて考えていない。考えられないという人もいるかもしれません。わたしたち教師は生徒の皆さんに「目標は何?」とか「将来どうしたいの」とか尋ねます。というのは、自らの人生を設計する上で、将来の自分自身を思い描くことは大切なことだからです。将来を思い描けないのは、辛いです。悲しいです。だから、生徒の皆さんはそれが叶うかどうか別として、自分はこうなりたいなあと願って生きて欲しいと思っています。

わたしはたまに、自分がこの仕事をしていなかったら今の年齢でどこで何をしていただろうと考えることがあります。もう一度人生があったとしたら、それでもやっぱりこの道を選ぶだろうかということです。答えは出ません。もう一度人生があったとしても、やはり牧師であることを選ぶかもしれません。教師の道を選ぶかもしれません。が、時として、全く別な仕事をしている自分を思い描くこともあります。別な場所で、別な仕事をしている自分。もし今と違う仕事をしていたなら、今のわたしが抱く夢とは違う夢を持って、弘前ではないどこかで生きていたかもしれません。

今年ノーベル医学生理学賞を受賞した大村智さんのことをご存じでしょうか。大村さんは抗生物質「エバーメクチン」の発見で毎年3億人の人々を感染症の脅威から守っていることが評価されノーベル賞を受賞しました。大学卒業後、定時制高校の教師として働いていた経験や、美術館や温泉をつくったことでも注目されました。大村さんの語った中、「一番大切なのは、人のためになること」「どれが世の中の役にたつのか」という言葉にわたしははっとさせられました。「人の役に立つことをしなさい」というのは大村さんのお母さんの教えだそうです。

仕事という言葉は「事に仕える」と書きます。わたしの場合、子どもたちを教え導くという意味でしょう。もし仕事をすることが単にお金を得るための手段でしかないとするなら、「事に仕える」にはならないでしょう。お金が儲かればそれで良いと考えるのであれば、フリーターでもギャンブラーでもかまわないことになるでしょう。あるいは、誰かからお金を援助してもらい、自分では働かないという方法だって可能になります。生活するにはお金が要ります。だから、わたしたち大人は生きるためにお金を稼ぎます。が、それはお金を得られれば何をしても良いということではないはずです。大村さんが語った「一番大切なのは、人のためになること」「どれが世の中の役にたつのか」という視点がない仕事は「事に仕える」ではないように思います。

けれども、生徒の皆さんはそのことを彼ら/彼女なりによく考えているようにも思います。他者の役に立つことを仕事にしたいと願っている、そう語る生徒が多いのです。もちろん、それだけが理由ではないでしょう。資格が取れる、就職できる、食いっぱぐれがないという理由もあるでしょう。保護者から「この仕事に就きなさい」と言い含められている場合もあるでしょう。でも、他者の役に立つのは、看護師や医師や消防士のみではないはずです。わたしたちが普段意識してないところで、たくさんの人々が一生懸命仕事をしていて、そのことによってこの世の中が成り立っているのです。人目につく仕事だけが必要とされる仕事なわけではないのです。

II

イエス誕生の出来事が記されているルカによる福音書には、羊飼いたちがイエス誕生の知らせを聞いてイエスに会い行ったと書かれています。羊飼いたちは野原で野宿しながら夜通し羊の群れの番をしていたある夜に、天使からの知らせを受けます。当時、羊飼いとは汚れた仕事であると考えられていました。その時代イスラエルの人々は毎日肉を食べられる生活はできなかったようです。おそらく、お祭りのときなど特別なときに食べるくらいだったでしょう。一番のごちそうは、羊の脂身だったと聞いたことがあります。羊を放牧し、大きく育てる仕事。人々にとって欠かすことのできない食料を生み出す仕事をしているにもかかわらず、羊飼いは汚れた仕事として人々に差別され嫌われていました。加えて、大変過酷な仕事です。野宿をしながら夜通し羊の群れの番をするということは、毎晩家では眠れない仕事なわけです。肉食動物や泥棒から羊を守り、草や水のある場所を探し求めながら移動する。ブラック企業よりもひどいかもしれません。それでも、彼らはその仕事をしていました。自分たちが生活するために、そして、人々の役に立つためにです。自らのすべき「事に仕えて」いたのです。

そのような羊飼いたちに、ある夜、不思議な出来事が起こります。真っ暗な夜の闇の中、強烈な光が彼らを包みこんだのです。そこには天使がいました。そして、《「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」》と告げるのです。ベツレヘムの町の家畜小屋で、飼い葉桶の中布にくるまって眠っている一人の赤ちゃんが、この世の救い主なのだというのです。今日生まれてきたのだというのです。立派な宮殿の中に生まれてきたのでもない。多くの人に注目されながらこの世にやって来たのでもない。誰からも顧みられることのない粗末でみすぼらしい家畜小屋の、その片隅に眠る赤ちゃんこそこの世の救い主である。この赤ちゃんの誕生は民全体に与えられる大きな喜びなのだと天使は告げます。羊飼いたちはその知らせを聞いて、ベツレヘムまで急いで行ったと書いてあります。今自分たちがすべきことは、天使が告げた知らせの証人としてベツレヘムまで行くことなんだと考え、その「事に仕えた」のです。

「事に仕えた」人たち。イエス誕生物語には、羊飼いの他にも登場します。イエスの母マリアは、イエスを出産するという「事に仕えた」人です。ヨセフと結婚の約束をしていたマリアにとって父親がヨセフではない子どもを産むことは大きな決断が必要なことでした。性に関する道徳が厳しかった当時、父親が誰かわからない子は私生児として差別されました。また、その子を産んだ母親も不道徳な存在として後ろ指を指される運命でした。《「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」》というマリアの言葉には、マリアの身にふりかかった理不尽さが言い表されています。しかし、マリアは最終的にイエスの母となる決意を固めます。そして、夫となるヨセフもマリアの決意を尊重し、受け入れ、生まれてくるイエスの父親となることを決めます。イエスという一人の赤ちゃんの生命を生かし、二人で育てていこうと決めたのです。理不尽な出来事に対し、それでもその中で自分たちのできることを尽くそうとしたのです。マリアもヨセフも、イエスの両親となる「事に仕えた」のです。そのとき、二人は勇気ある決断をしたのです。

それは、自分が得するからとか損するとかいう損得を度外視した行為です。最初に申しましたことで言えば、お金になるからとかお金にはならないからとかいうことには全く関係のない行為です。羊飼いたちも、マリアもヨセフも、もし「自分さえ良ければ」と考えたなら、あのような行動はとれなかったはずです。羊飼いたちは、天使から告げられた知らせにびっくりしたでしょうし、「何で自分たちがベツレヘムまで行かなければいけないのだ。羊の世話の方が大事だし」とも考えたでしょう。でも、急いでベツレヘムまで行きました。マリアとヨセフも「こんなの嫌です。わたしたちは幸せな結婚をしたいのです」とも思ったでしょう。でも、生まれてくるイエスの母になり父になることを選びました。羊飼いたちも、マリアもヨセフも、今、自分たちができる最善を尽くそうとした人たちです。自分たち自身の生活を守る以上に、自分たちのプライドを大事にする以上に、今すぐにやらなければいけないことがあることに気づき、その意志に従って行動した人たちです。やると決めて「事に仕えた」のです。本当にすごいなあと思います。そのときは、必死でしょう。あまり意識していなかったでしょうけれども、「一番大切なのは、人のためになること」「どれが世の中の役にたつのか」ということを、自分たちのできる最善を具体化した行為だったのだろうとわたしは思います。

III

そこにあるものは、わたしがやらなくても誰かが何とかしてくれるという考え方の逆にあるものです。このことをやるのはわたしではなければならないということだと思います。これは、遠い東の国からはるばる旅をして、イエスに黄金、乳香、没薬を献げた占星術の学者たちも同じだと考えます。自分がやらなくても誰かが何とかしてくれるとか、自分さえ得すれば良いとか、そのときを何とかうまくごまかせればとか、めんどくさいことからは逃げようとか、そのような考え方をしていたらはるばるユダヤまでやって来る前に挫折していたでしょう。彼らを動かしたものも、腹をくくって目の前の「事に仕える」という強い意志です。自分の心の一部分をそこに傾けなければできないことです。「どうしても自分たちはこれを成し遂げるのだ」と決心したからこそできたことです。

 最後に、クリスマスという出来事最大の「事に仕えた」存在のことに思いを寄せたいと思います。神です。イエスは神の独り子でした。神は、この世界に自分の独り子を、一人の赤ちゃんとして送り出しました。そして、最終的にその独り子は十字架の上で無残に殺されなければなりませんでした。しかし、神はあえてそうしなければならないと考えて、そのように実行しました。何故なら、わたしたちの世界に愛や希望をもたらすためにです。恐れや怖さ、不安や闇に満ちた世界に、愛や希望を伝えるためです。クリスマスとは喜びの訪れです。希望の象徴です。一人のいたいけな赤ちゃんがこの世の救い主としてわたしたちの世界に遣わされる。この世界を愛の力によって変えようとする神の意志の表れだと思います。「神はわたしたちと共にいる」という確かなしるしがイエス誕生、クリスマスの出来事です。神は覚悟してその「事に仕えた」のだとわたしは考えています。クリスマスという出来事の中で行われた神の仕事なのだとわたしは確信しています。

振り返って考えてみるとき、わたしたちにはわたしたちそれぞれがなすべき様々な事柄があります。そこから逃げることもできるのでしょうけれど、それでは何も進みません。一つ一つの細々とした事柄を、誠実に、そして丁寧にやり抜くことが将来へとつながっていくのだと思います。たとえそれが小さな一歩でもです。子どもたちが夢や希望を語れる世の中をつくりたい。将来なりたい自分を思い描くことを応援したい。それが、今わたしが「仕える事」です。この世界を一人の赤ちゃんの力によって愛と希望に満ちたものとしようとした神の仕事を思うとき、わたしたちそれぞれにはそれぞれに託された仕事があることを考えさせられます。わたしたち自身がそれぞれの「事に仕えたい」と思います。《主よ、あなたはわたしの灯を輝かし、神よ、あなたはわたしの闇を照らしてくださる》と詩編の詩人は語ります。神から与えられた愛と希望の象徴であるイエス・キリストという灯に照らされ、わたしたちそれぞれの人生を精一杯に輝かし生きていきたいと願います。 そのことが、自分の隣人たちを喜ばせ、他者に仕える生き方につながると信じるからです。



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