わたしたちが互いに愛し合うならば

宗教主任 石垣 雅子

〜聖書の言葉〜

愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。いまだかつて神を見たものはいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。

日本聖書協会『新共同訳 新約聖書』ヨハネの手紙Ⅰ 4章7-12節

I

今年、ノーベル平和賞を二人の人が受賞しました。そのうちの一人がマララ・ユスフザイさんです。彼女は、パキスタン人、17歳とのことです。2012年の10月にパキスタン・タリバン運動というイスラム過激派に頭部を撃たれましたが、一命を取り留めました。パキスタン・タリバン運動は女性の教育を受ける権利を否定し、学校を破壊しました。「わたしの声はみんなの声です。学校に行けない6千600万人の少女がいる。それがわたしです」というノーベル平和賞受賞記念スピーチはわたしの胸を打ちました。マララさんが経験したことは、この国で生きているわたしたちにとっては考えもつかないものです。勉強がしたいから学校に行きたい。が、性別が女性であるだけで、そのことが許されない。そのような女性たちが世界にはたくさんいます。そして、子どもであるにも関わらず、教育の機会が与えられず、劣悪な環境の職場でひたすら働かなければならない子どもたちがいます。このことについては、もう一人のノーベル平和賞を受賞したインドのカイラシュ・サティヤルティさんの活動から教えられました。「サッカーボールの裁縫をしながらサッカーをしたことがない子。カカオの収穫をしながらチョコレートの味を知らない子。彼らはわたしたちの子どもです。」という言葉に、わたしは言葉を失いました。

そこにあるものは、人間を恐怖によって支配しようとするとても邪悪な人々です。人々を暴力によって黙らせ、力によって不安を与え、恐怖によって服従させようとする邪悪さです。そして、その邪悪さに捕らわれている人々を救おうとするマララさんやカイラシュさんのような人間です。どちらも人間です。邪悪な人間と、邪悪さから救おうとする人間。醜さと美しさ。汚らわしさと貴さ。でも、人間は何も二種類に分類できるわけではありません。一人の人間が、その心の内に、邪悪さと邪悪さから救われたいという相反する思いを抱きながら日々を送っているのだろうと思うのです。矛盾するその二つを抱えながら生きているのだと思うのです。けれども、一つ言えることは、この世界は良い人ばかりの世の中ではないけれど、少しでも良い人が増えれば、この世の中を変えられるのではないかということです。今年ノーベル平和賞を受賞した二人の方の言葉に、わたしはそのような希望を与えられ、そして自分自身は何をやっているのだろうと反省させられた思いがしております。

II

イエスが生まれた当時も、決して人々が生きやすい世の中ではなかったことは歴史的資料からも読み取れます。2000年前の当時、ユダヤはローマ帝国の支配下にありました。「パクス・ロマーナ(ローマの平和)」と呼ばれた時代です。けれども、平和とは名ばかりで、貧しい奴隷や下層民と、豊かな貴族の間には越えられない身分の差がありました。格差社会と呼んでいいと思います。貧しい人々は日々の生活がやっとで、食べるものにも事欠く状態であったようです。朝から晩までひたすら働きづめの人々がたくさんいる。その裏では、毎晩宴会を開き食べ飽きるほどの金持ちたちがいたわけです。力ある者が力弱い者を思うままに支配する。そのような世の中が展開されていたわけです。希望を持ちにくい、今日一日、明日一日を何とか生き抜いていくに必死な人々がいたわけです。

そんなただ中に、一人の赤ちゃんがこの世に生まれてきます。名前をイエスといいました。マリアとヨセフという一組のカップルの子どもとしてこの世に生まれてきました。このイエスは、神の独り子であったといいます。神さまが、この世に自分の独り子を、人間の子どもとして生まれさせたのだというのです。ひどい話です。マリアとヨセフは、《宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである》とルカによる福音書にありますが、おそらく家畜小屋でイエスを出産しなければならなかったのでしょう。出産ですから、なるべくきれいで衛生的な場所でしたいと願うはずです。が、それがかななわない。二人とも「本当にこれで良いの?」と疑問に感じただろうと思います。「神の子だったら、もっとそれらしくしてよ」と考えたかもしれません。生まれたばかりのイエスを寝かせたのは、飼い葉桶だったといいます。イエスは神の子だからという特別待遇は全くありませんでした。一人の人間の赤ちゃんとして、決してきれいではないだろう家畜小屋の飼い葉桶の中に寝かされたのです。

しかし、わたしはここに大きな意味を見出します。それはどういうことかといえば、神さまはわたしたち人間に対して強くて圧倒的な力によって働きかけるのではないということです。かわいらしい、いたいけな赤ちゃんの姿で働きかけるのです。赤ちゃんはどんな子もそうだと思いますが、決して邪悪ではありません。悪い赤ちゃんはいません。「どうだ、お前を傷つけてやるぞ」という言葉や雰囲気を発する赤ちゃんはいないのです。ただ、おぎゃーおぎゃーと泣き、お母さんからお乳を与えられ、満足そうに眠る。それが、赤ちゃんです。親から世話してもらえなければ、生きられない、かよわい存在なのです。おそらくほとんどの皆さんは、赤ちゃんの姿を見れば笑顔になると思います。「顔については将来が心配だ」と密かに思おうが、赤ちゃんを見ればみんなきっと笑顔になると思います。「かわいいね」と言うと思います。赤ちゃんとは希望です。邪悪さから一番遠いところにいる存在です。

このことは、神さまがわたしたち人間に仕掛けた攻撃です。それは、武器やテロによる攻撃ではありません。暴力によって黙らせ、力によって不安を与え、恐怖によって服従させようとする邪悪な攻撃ではありません。むしろ、暴力や、不安や、恐怖と全く反対側にある攻撃です。それをわたしは、弱さによる攻撃と呼びたいと思います。弱さによる攻撃。本来の意味から言えば、この言葉は矛盾しています。こんな一人の赤ちゃんがこの世界に誕生してくることによって、この世界の何が変わるというのでしょう。ベツレヘムの家畜小屋に生まれた赤ちゃんが世界の何を攻撃するというのでしょう。マシンガンも、地雷も、戦闘機も、核兵器も持っていません。ただ、飼い葉桶の中にすやすやと眠っているだけです。

しかし、これは神さまによる、わたしたち人間に対する攻撃です。強さが支配するこの世界に、圧倒的な弱さをもって攻撃する戦術です。自分では何をすることもできない。誰かに世話をしてもらわないと生命さえつなげない。圧倒的に弱いその無力な赤ちゃんの誕生は、わたしたち人間に対する徹底的な攻撃なのだと思います。暗くて邪悪な、わたしたち人間の歴史に一筋の光を与え、自分の独り子イエスをこの世に送りこんだ。そして、この世界を良いものにしようとした神さまの必死な思いがこめられた出来事がクリスマスなのだと思います。

そのような神さまの思いを、わたしたちは愛と呼びます。愛の故に、独り子イエスをこの世に送りました。そして、最終的には十字架刑という残酷な殺し方でもってイエスを殺されます。それでも、神さまはわたしたち人間をあきらめてはいない。人間同士、お互いに愛することができるはずだと信じているのです。しかし、時に愛は自己保身にも変化します。「わたしを愛しているならば、○○して」というのは愛ではありません。ただ自分の都合を相手に押しつけているだけのことです。自分のして欲しいことだけを求めて、相手のことを考えていないのは思いやりに欠けています。それは愛ではないと思います。

III

《わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちのうちにとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。》とヨハネの手紙は語っています。《わたしたちが互いに愛し合うならば》、わたしたちは、良い方向へ変わることができるのです。神さまの愛がわたしたちの内にあるからです。わたしたち人間が、お互いに愛をやりとりできるならば、神さまの愛はわたしたちの内にあります。わたしたち人間同士、神の愛に根ざして、隣人を愛することができるのです。愛とは、わたしたち人間を邪悪さから離れさせ、邪悪さから解放させる唯一のものなのかもしれません。 愛とは、暴力や、不安や、恐怖の全く逆にあるものです。とても温かくて、とても美しく、とても貴いものです。でも、目には見えないものです。目に見えないけれども、そこに確かにあるものをわたしたちは愛と呼び、お互いに愛をやりとりすることによって、本当の力を得、励ましを与えられるのではないかと思います。

この後歌います『さやかに星はきらめき』の讃美歌このような歌詞があります。「げに主こそ平和の君、たくいなき愛の人。伝えよ、そのおとずれを、ひよろめよ、きよきみわざを。たたえよ、声のかぎり」と。たぐいなき愛の人であるイエスは、マリアとヨセフという一組のカップルの子どもとして生まれました。いたいけな赤ちゃんとして、ベツレヘムの家畜小屋で生まれました。彼は、成長し、人々に愛を伝えました。伝えたというより、人々を愛する生涯を送りました。2000年前に誕生したイエスのことをおぼえて、わたしたちは今クリスマス礼拝を行っています。また、全世界の人々がクリスマスを祝い、隣人に優しくなり、隣人へ思いやりを届けようとしています。

わたしたち一人一人は、この世界を大きく変革させることはできないかもしれません。「たぐいなき愛の人」になることも、とても難しいのかもしれません。しかし、わたしたちは自分のまわりの人々を変える力は持っているのではないかと思います。わたしたちは、無力であるかもしれない。弱い存在かもしれない。それでも、わたしたちが良い世界の実現を望み、願い、自らのできる力を尽くそうとするならば、たとえわたしたちがどんなに小さな存在であったとしても、何かが変えられる気がするのです。少しでも良い人が増えれば、この世の中が良い方へ変わる気がするのです。そのような人に、わたしはなりたいのです。そして、ここにいる皆さんにもなって欲しいのです。クリスマスは、イエスが誕生した出来事です。イエスの誕生は、わたしたち人間に対する神からの愛の呼びかけです。イエス誕生の出来事が示す弱さによる攻撃の意味を知る「邪悪ではない」一人となって下さい。そして、自分の側にいる隣人たちに小さな希望を与えられる「良い人」の一人となって下さい。



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