目を上げて、見渡すがよい

宗教主任 石垣 雅子

〜聖書の言葉〜

目を上げて、見渡すがよい。
みな集い、あなたのもとに来る。
息子たちは遠くから
娘たちは抱かれて、進んでくる。

日本聖書協会『新共同訳 旧約聖書』イザヤ書 60章4節

1.嬉しいことありましたか?

最初に皆さんに1つ質問をしようと思います。今年、一番嬉しかったことはどんな出来事だったでしょうか?

もしかすると、今年嬉しいことはなかったという人がいるかもしれません。あるいは、あったかどうか忘れてしまったという人もいるかもしれません。わたしたちの人生は、おそらく、日常の中にささやかな幸せがあるはずです。食べたご飯が美味しかったとか、誰かに認められたとか、やりたいことがうまくいったとか、試合で結果が出せたとか、そのような経験はわたしたちにささやかな幸せをもたらします。でも、その幸せな感覚はしばらくするとどこかに行ってしまうのです。そのときは「良かった」と思ったとしても、その感覚が長続きするわけではないのです。困ったことに、その感覚が麻痺してしまっていて、「別に」「どうでも良い」「関係ない」「無理無理」としか言えなくなってしまっている人もいるのかもしれません。

そして、もっと困ったことに、「どうせ自分のささやかな幸せなどわかってはもらえないのだ」と考えてしまう人たちもいるのかもしれません。「今日とても美味しいご飯を食べた」と言ったとしても、「ふーん、それで」と返されてしまう。試合で結果を出しても、上を見ればきりがない。「もっと頑張りなさい」「もっとやれるだろ」という言葉によって、「どうせわかってもらえない」と思ってしまう人たちもいるのかもしれません。ささやかな幸せや小さな充実感や達成感を打ち砕かれてしまう場合もあるのかもしれません。

「どうせわかってもらえない」ということは悲しいことです。あきらめと絶望感があります。期待されていない、だから希望も持てないということです。けれども、「どうせわかってもらえない」が「もしかするとわかってもらえるかも」に変化したらどうでしょうか。わたしたちは誰でも誰か他人にわかってもらいたいのです。「聞いて聞いて」と言う生徒の皆さんは、話を聞いて欲しいのです。聞いてわかって欲しいのです。共感し、「そうだね」と言って欲しいのです。否定しないで、肯定して欲しいのです。その経験はささやかでも嬉しいことだからです。これは、わたしたち大人でも同じだと思います。

2.「どうせわかってもらえない」

イエス誕生物語において、「どうせわかってもらえない」と思った人々の代表がマリアとヨセフだったと思います。二人は婚約中でした。ところが、ある日突然天使がマリアのもとにやって来て、「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」と告げるのです。そして、「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい」と言われるのです。受胎告知と呼ばれる場面です。結婚相手の子ども、好きな相手の子どもを産む前に、神によってイエスという子を産みなさいと命じられてしまうのです。あのマリアという女は結婚前に妊娠した、ふしだらな、とんでもない女だと後ろ指を指されても仕方のない時代でした。そして、ヨセフは父親が誰かわからない子を妊娠した女と結婚した、「良いように利用された」と笑われるような状況でした。二人は考えたでしょう。「どうせわかってもらえない」と。

加えて、ピンチの連続です。住民登録のためにベツレヘムという町に着いたら、泊まる場所すらないというのです。身重のマリアを抱えてヨセフは途方に暮れたでしょう。《宿屋には泊まる場所がなかったからである。》という聖書の言葉に、二人の苦しさが表現されていると思います。どこにも身を寄せる場所なく、仕方なく、屋根のあるところを求めた。そして、家畜小屋で出産せざるを得なかった。母子共に健康であってくれと願うのは当然のこと。できる限り衛生的な場所で、できる限り安全に出産したいと思うはずです。でも、それがかなわない。マリアが横たわり陣痛に苦しむその隣りに家畜がいる状況で、イエスを出産しなければならない。神の子イエスの出産にしてはあまりにも酷な状況が展開されたのだと考えます。

けれども、マリアの胎からイエスが産み出された瞬間、その状況が変化します。生まれてきたばかりの赤ちゃんを訪ねてやって来た人たちがいたのです。マタイによる福音書によると占星術の学者たち、ルカによる福音書によれば羊飼いたちだったということになっています。占星術の学者たちは先程の讃美歌で「われらはきたりぬ、はるけき国より、星に導かれ、野山こえて」と歌いましたように、星に導かれて遠い東からやって来たのです。西の国、ユダヤに誕生したユダヤ人の王なる存在に会い、自分たちのプレゼントを贈るためにです。他方、羊飼いたちは、野宿をしながら羊の群れの番をしているときに天使から知らされます。「恐れるな。わたしは民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町であなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」と。羊飼いたちは驚き恐れた。でも、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子こそあなたがたのために生まれた主メシアだと言われて、ぐずぐずせずにベツレヘムへ急いで行くのです。

3.「もしかしたらわかってもらえるかも」

学者たちや羊飼いたちが自分たちのところに来たマリアとヨセフは一体どうだったろうと考えます。学者たちは、黄金、乳香、没薬という当時の世界でとても高価だった宝物を献げます。羊飼いたちは、たぶん、大勢でどやどやと押しかけたことでしょう。その訪問をマリアとヨセフは嬉しいと感じたのではないでしょうか。「どうせわかってもらえない」と思っている辛く厳しい状況のときに、生まれてきた子を祝うためにやって来た人たちがいる。どちらもそんなに簡単にベツレヘムの家畜小屋まで来られる人たちではないと思います。遠い国からはるばる旅してくるのも、預かっている羊たちをほったらかしにして走って来るのも、とても大変だったはずです。そういう大変さはマリアとヨセフもわかったはずです。来てくれて、嬉しいと思ったに違いない。この子の誕生を一緒に喜び嬉しいと祝ってくれる人たちがいる。わたしたちを理解し共感し肯定してくれる人たちがいる。マリアとヨセフにとって、そのことが本当に励ましになっただろうと思います。

考えてみるに、励ますこととは前に向かわせることです。下を向いたり、後ろを向いたりさせることではありません。下を向いている人や後ろを向いている人を、前向きにさせることが励ますということです。そして、前を向くこととは、未来を見つめることです。未来を見つめるとは、希望があることを確認することです。マリアとヨセフが「どうせわかってもらえない」という辛く厳しい状況の中にあったときにには、下を向かざるを得なかったことでしょう。が、学者たちがやって来た。羊飼いたちがやって来た。そして、生まれてきた子を喜んで歓迎してくれている。その瞬間、マリアとヨセフの視線は下や後ろにはなかったと思います。自分たちの子どもとして愛し育てようと考えた。しっかり前を向いて生きていこうと考えたのではなかったでしょうか。生まれてきたばかりの赤ちゃんには希望がある。もっと言うなら、この子が希望なのだと考えたのではなかったでしょうか。そして、学者たちも、羊飼いたちも、こんなの期待はずれだとは言っていません。ということは、わかったのです。この赤ちゃんがこの世の救い主で、自分たちは幸運な機会に立ち会うことができたということをです。学者たち、そして羊飼いたちはその年一番嬉しい出来事、もしかすると人生の中でも一番嬉しい出来事をそのとき経験したのかもしれません。

4.目を上げて、見渡すがよい

今日、わたしたちが生きているのは、残念なことに、嬉しい出来事になかなか出会えないでいる世の中なのかもしれません。悪いニュースは多いのです。ことごとく希望を失わせ、人生なんてこんなもんだよとあきらめや仕方なさを突きつけられる状況にあるのかもしれません。わたしたちに下を向かせ、あるいは後ろを向かせ、「どうせわかってもらえない」と言わざる得ない世界が展開されつつあるのかもしれません。辛い、苦しい状況にある人々のことを忘れないでいようと思ったはずなのに、すっかり自分自身の日常に埋没してしまっているのかもしれません。

《目を上げて、見渡すがよい。みな集い、あなたのもとに来る》というイザヤ書の言葉をわたしは思います。どんなに暗い世の中であったとしても、どんなに希望がないように思われる世の中であったとしても、目を上げてまわりを見なさいと命じるのです。下を向いていては見えないことがある。後ろを見ていては前に進めない。「どうせわかってもらえない」では理解されない。讃美歌を歌うとき、胸を張って前を見なければ美しい声では歌えないの同じように、わたしたちの人生も胸を張り目を上げなければささやかな希望すら与えられないのです。

ことごとく希望を失わせようとするのが今の世の中だとするならば、「そんなことはない」と、わたしはこの世の中に希望があることを伝えたいのです。目を上げて、わたしたちの前を見つめたいのです。わたしたちの前には、決してわたしたちをおとしめる人たちだけがいるのではない。「どうせわかってもらえない」と嘆きたくなる状況だけが展開されているわけでもない。希望がある。夢がある。嬉しい出来事も、充実感や達成感もある。絶望や虚無に打ち砕かれて、あきらめてしまってはいけないのです。

この世界の希望として生まれて来た赤ちゃんは、イエスという名前でした。2000年前ユダヤのベツレヘムというところに生まれてきました。マリアとヨセフという夫婦のもとに生まれてきました。そして、この世界が希望あるものだと信じる人々によって喜び祝われました。わたしたちが今集っているのはその赤ちゃんをこの世に迎え入れたことを記念してのことです。その出来事をとても嬉しい出来事だと思ってのことです。今年良いことがなかった、嬉しいことなんてなかったと思う人たちにも、とても困難な現実の中で生活せざる得ない人たちにも、今年もまたクリスマスがやって来たのです。目を上げて、見渡しましょう。わたしたちに与えられるのは、わたしたち人間を愛し見守る神がイエスをこの世界に送ってくれたときから変わることなく、希望ある未来なのです。前をしっかりと見つめ勇気を持って生きていきましょう。



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