恐れを越えて喜びへといたる

宗教主任 石 垣 雅 子

〜聖書の言葉〜

その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」

日本聖書協会『新共同訳 新約聖書』 ルカによる福音書 2章8-12節節

神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。こうして、愛がわたしたちの内に全うされているので、裁きの日に確信を持つことができます。この世でわたしたちも、イエスのようであるからです。愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。

日本聖書協会『新共同訳 新約聖書』 ヨハネの手紙1 4章16-19節

1,怖いものは何?

最初に一つ質問をしようと思います。

皆さんがこれまで経験した中で一番怖かったのはいつどこでのことだったでしょうか? もちろん子どもと大人では感じ方が違うでしょう。「しこたま怒られたとき」「暗いところを一人で通らなければならなかったとき」「知らない人に声をかけられたとき」「車の運転でぶつかりそうになったとき」なんていうのが怖さを感じる瞬間なのかもしれません。怖さを感じた瞬間なんて思い出したくもないとお思いになった方もおられるでしょう。

わたしたち人間は、多くの場合、恐怖を感じると動けなくなります。おそらくは自分自身を守るための防御本能だと思います。犯罪に巻きこまれたときに動けなくなるのはこのせいでしょう。「どうして抵抗しなかったの」と言われても、人間の心理を考えるとできなくなることがあるのだと思います。生徒の皆さんにとっても同じかもしれません。先生に怒られると頭がまっ白になるというのも、怖さを感じたせいだとすれば言い訳にはなります。でも、わたしはゆるしません。怒られたらきちんと受けとめて欲しいからです。

クリスマスとはイエスの誕生であり、喜びの訪れです。しかし、イエス誕生の物語は「救い主イエスが生まれて良かったね、メデタシメデタシ」という単純な構成にはなっていません。といいますのは、イエスがこの世に生まれてくることにかかわった人々が感じた心の動きが強調された描かれ方がなされているということです。もっと簡単に言えば、恐れや怖さを感じた人々が色々な場面にちりばめられています。

2,ヘロデ王のこと

例えば、イエスが生まれた当時ユダヤを治めていたのはヘロデという王様でした。このヘロデという王は本当にひどい王様でした。高校1年生が使っている聖書の教科書には《疑い深く、残忍で、人を信じられない性格であった》と書いてあります。ヘロデは自分の家族や肉親も疑いをかけては殺し、あるいは自殺に追いこみ、たくさんの人々を死に追いやった王様として伝えられています。マタイによる福音書のイエス誕生物語において、占星術の学者たちがイエスに会いに来た場面にこう書いてあります。《「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」これを聞いてヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。》

ヘロデ王が何故不安になったのか。それは自分の王としての地位を奪われるかもしれないと考えたからです。大事なものを奪われそうになるとき、人間は不安を感じます。恐れや怖さを感じます。ヘロデは自分を守るためにまわりを犠牲にすることしか思いつかない人物だったようです。結果的に、彼はベツレヘム近郊に住んでいた2歳以下の男の子を皆殺しにするというとんでもないことをしたと聖書は記しています。クリスマスという喜びの出来事の裏に、子どもを殺された父親と母親の悲しみが隠されています。自分が感じた恐れや怖さを何とか解消しようと、まわりを傷つけたヘロデの行為はゆるされることではありません。でも、「自分さえ良ければ」「自分が一番大事」という考え方ばかりをしてしまうなら、わたしたちもヘロデと同じ過ちを犯してしまう危険性を持っています。

3,羊飼いのこと

恐れや怖さを感じた人々はまだ登場します。ルカによる福音書に出てくる羊飼いたちです。日本において羊という動物はあまり身近なものではありません。が、聖書の世界イスラエルの人々にとって一番身近な動物が羊でした。にもかかわらず、羊飼いとは、当時の社会において、汚れた仕事として馬鹿にされ見下げられていた人々でした。それだけではなく、生き物相手の仕事です。家の中にいてはできません。野原で羊と共に生活をし野宿をしながら、羊に草や水を与えるきつくて厳しい仕事だったと思われます。

そんな羊飼いたちにある夜、得体の知れないものがやって来るのです。今まで見たこともない不思議なものが自分たちの側に近寄ってきたというのです。《その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光がまわりを照らしたので、彼らは非常に恐れた。》と記してあります。夜の暗闇の中にいる羊飼いたちにいきかりピカーっと光るものが来たのですから、怖がるのはあたり前でしょう。わたしでも皆さんでもびっくりすると思います。幽霊が怖いとよく言いますが、羊飼いたちにとってはまさに幽霊に出会ったみたいなものでしょう。その夜、羊飼いたちの側に来たのは主の天使であったといいます。天使はこう言います。《「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」》

考えてみればわかるのですが、恐れや怖さを感じているときというのはわたしたちの心はそれに支配されてしまいます。恐れるということは喜びや幸せを感じる機能が働かなくなるのです。いわば、固まった状態になってしまっているということです。固まってしまった羊飼いたちに、天使は「わたしがもたらすのは恐れや怖さではない」と語っているのです。「あなたたちのために生まれた救い主誕生の喜びの知らせを告げに来たのだ」と語っているのです。恐れを越えたところにあるものとは喜びであった。喜びへと至るためには、今感じている恐れや怖さを越えなさいと天使は命じているのです。そして、その知らせを信じた羊飼いたちはとにかくひたすら急いでベツレヘムへと向かい、生まれたばかりのイエスと対面するのです。羊飼いたちは天使の言葉を素直に受け入れ、恐れを越えて喜びへと到達していくのです。

4,恐れを越える

この姿勢は、ヘロデの逆にあるとわたしは思います。ヘロデは新しく生まれたユダヤ人の王イエスが怖かった。恐れた。不安になった。自分を守るために、自分が大事だからまわりを犠牲にすることは仕方ないことだとヘロデは考えました。結果として、いたいけな子どもたちを皆殺しにしました。羊飼いたちだって怖かったし不安だったはずです。でも、羊飼いたちは天使の言葉を聞いて素直に信じたのです。恐れや怖さから立ち上がり、すぐにベツレヘムまで向かうのです。「あなたたちのために救い主が生まれたのだ」と言われて、そうか自分たちにために生まれた救い主を見に行かなくちゃと思い切るのです。恐れや怖さの中に、不安の中に立ち止まってしまったヘロデ。恐れや怖さ、不安を越えてその先へ進んで行った羊飼いたち。この違いにわたしは注目するのです。

今年わたしたちの学校も恐れや怖さ、不安との闘いであったと思っています。新型インフルエンザの流行によって、礼拝堂に入場しての礼拝が行えない期間が長く続きました。生徒がたくさん集まる行事は中止になりましたし、クリスマス・キャロリングも施設訪問を行えませんでした。学校が目に見えないインフルエンザウィルスにむしばまれていく感覚がとても嫌でした。見えないものは本当に怖いなあと思わせられました。

しかし、クリスマスを迎える今、わたしたちの心を支配するものが恐れや怖さ、不安ではないことを願うのです。何故なら、イエス・キリストはわたしたちの世界に愛や希望をもたらすために来られたからです。恐れや怖さ、不安に満ちた世界に、愛や希望を伝えるために来た救い主がイエス・キリストであったからです。クリスマスとは喜びの訪れです。希望の象徴です。一人のいたいけな赤ちゃんがこの世の救い主としてわたしたちの世界に遣わされる。この世界を愛の力によって変えようとする神の意志の表れだと思います。力が支配するこの世界を、愛をもって変えようとする神の意志で送りこまれてくる赤ちゃんがイエス・キリストなのです。「神はわたしたちと共にいる」という確かなしるしがイエス誕生、クリスマスの出来事です。

ヨハネの手紙はこう語ります。《神は愛です。愛にとどまる人は、神のうちにとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。》そして、《愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。》と。わたしたち人間は誰でも恐怖によって支配されるのではない。神はわたしたちを恐怖によって支配しようとはなさいません。愛の力で変えようとなさるのです。羊飼いたちが恐れを越えてベツレヘムへ急ぐその姿のように、わたしたちもそれぞれがイエス・キリストの誕生を喜びをもって迎えたいと思います。わたしたち人間は、神に良しとされ、愛や喜びや感謝をもって生きる存在とされているのです。クリスマスのこのとき、たとえ、わたしたちの中に恐れや怖さ、不安があったとしても、それを越えて喜びへと至る道を神は示して下さるのです。



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