わたしたちが生きるために

宗教主任 石 垣 雅 子

〜聖書の言葉〜

神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちに示されました。

日本聖書協会『新共同訳 新約聖書』 ヨハネの手紙1 4章9節

I

11月の半ばのことでした。わたしは一人の友人が亡くなったのを知らされました。37歳でした。まだ早すぎる、突然の死でした。彼とは大学・大学院時代を共に過ごしました。同じ教室でキリスト教を学びました。彼もまたわたしと同じように牧師でした。母校の大学で助教授として働きはじめて1年半余り。まだまだ、これから活躍が期待される人でした。京都で行われた彼の葬儀に参加し、物言わぬ彼の亡骸を目の当たりにしました。火葬場へ出棺するとき、紅葉がとてもきれいで、ついでに雲一つない空でした。「ああ、死んでしまったんだなぁ」と思いました。それ以来わたしはときどき彼のことを思い出しています。そして、色々なことを考えています。

考えていることの一つは、どうしてわたしはキリスト教に出会い、それを学び、牧師になったのだろうということです。わたしがキリスト教に出会ったのは確か高校3年生のときです。今から20年程前のことになるでしょうか。別に世をはかなんだからとか、人生に絶望していたからという理由ではありません。偶然です。友人にクリスチャンの人がいて、キリスト教ってどんなものなのかなと思って学校の近くの教会へ行ってみたのがきっかけです。キリスト教を大学で勉強することになったのも、これまた偶然です。第一志望の大学に落ちてしまったので、その大学に行くことになったのです。弘前に住み、今の仕事をするようになったのも偶然です。わたしは津軽の出身ではありませんし、弘前学院という学校のことも知りませんでした。たまたまお話があって、それがうまくいって、ここで働きはじめたのです。ですから、「こうなって欲しい」とか「こうなるはずだ」という道ではなく、自分では予想もしていない展開が拓けてきたのが今までのわたしの人生なのだと思います。偶然が何回も続いたのです。

それはわたしの描いた理想ではなかったこともありました。自分の思い通りにならないこともありました。その度、わたしは嘆きました。「どうして」「何故」と考えました。友人の死に際しても、わたしが一番考え続けているのは「どうして」「何故」ということです。神さまのなさることはわたしたち人間にはわからない、と語る人がいます。そうかもしれません。でも、神さまが指一つ動かしたら、人間がその通りになるのだとしたら、あまりにもひどいと思います。そうではないと思います。様々な事柄を通して、神さまはわたしたち人間に何かを語りかけているのだと考えます。その語りかけは、わたしたち人間には受け取ることが難しい事柄も含まれている。理解しにくいこともたくさんあるのでしょう。

イエスの母となったマリア、父となったヨセフにとっても神さまのしたことは理解するのが難しい事柄だったと思います。二人は間もなく結婚する予定でした。それなのに、結婚を目前に控えて、マリアが妊娠をするのです。当時の社会では結婚前の妊娠は許されないことでした。「できちゃった結婚」なんてあり得なかったのです。二人は「どうして」「何故」と考えこんだと想像されます。それでも二人はこのことを受けとめ、生まれてくるイエスを自分たちの子どもとして育てようとするのです。何故マリアがイエスの母に選ばれ、そしてヨセフが父とされたのか。本当のところはわかりません。特別な能力があったとか、家柄が良かったとかお金持ちだったとか、そういうことではないことだけは確かです。おそらくどこにでもいる「普通」のカップルだったと思われます。でも、二人はとても素敵なカップルだったろうとわたしは想像しています。二人の間にあったのは、お互いに対する深い信頼と大きな愛だったのだろうと思えるからです。それがなければ、とても乗り越えられないことだと思うからです。

II

わたしたちの生きている現代の社会は、お互いに対する信頼や愛が伝わりにくい世の中なのかもしれません。信じていたものが裏切られたり、信じられないが故に憎しみ合ったりする現実が展開されているのかもしれません。また、愛という言葉だけが一人歩きをし、モノに代えられたりもしているような気がします。「わたしを愛しているなら○○をして」とか「わたしを愛しているなら○○はしないはずだ」と、愛することに条件をつけてしまうことも多いように思われます。家族や友人、恋人という近しい関係においてすら、信頼や愛が伝わらず、そのためにいたましい出来事が起こっています。携帯電話をはじめとする便利な道具でもって安易に会話が成り立っています。そして、そのためにトラブルを起こしたりトラブルに巻きこまれたりする人もいます。信頼や愛というものは電波ではなかなか通じないのです。電波に乗せて無理矢理に通じさせようとしてもなかなかうまくはいかないのです。  さて、今日わたしたちは、信頼や愛をこの世界に伝えようとしてやって来た方を祝うために集まっています。その名をイエスと言いました。彼は2000年前ユダヤというところに生まれてきました。マリアとヨセフという一組のカップルの元にです。神さまは、彼をこの世界に送りこんだのです。一人の赤ちゃんとしてです。けれども、当時の世界において、その赤ちゃんがこの世の救い主(キリスト)であることに気づいた人々は多くはありませんでした。多くの人は気づかないでいたのです。気づいた人々とは、当時の世界で、関係ないと思われている人たちだったり、差別を受けている人たちであったり、誰からも相手にされない人たちであったりしたのです。すなわち、占星術の学者たちであったり羊飼いたちだったのです。権力を持っていたり、お金持ちだったりした人々は誰一人気づきませんでした。この世の救い主が無力な赤ちゃんだなんて思わなかったのです。

マタイによる福音書に登場してくる占星術の学者たちは、東方からやって来ました。彼らは異邦人、すなわち外国人でした。でも、彼らは「ユダヤ人の王」を探しに来たのです。交通手段も歩くか馬やロバ、ラクダくらいしかないというのにです。外国人に「ユダヤ人の王」は関係ないはずです。にもかかわらず、はるばる遠くから旅をしてくるのです。多くのユダヤ人たちがイエス誕生に気づいていないの彼らは気づいてイエスに会いに来るのです。一方、ルカによる福音書によれば、イエス誕生に気づいていち早く駆けつけたのは羊飼いたちであったということになっています。羊飼いとは、当時差別され馬鹿にされる仕事でした。野原で野宿する厳しい生活を送っていた人たちです。そのような人々に救い主イエス誕生の知らせはいち早く届けられ、彼らはイエスを見に来るのです。なかなか信じてもらえない、誰からも愛されないと思っていた人々にイエス誕生の知らせが一番に告げられているのです。

III

わたしはこのことの中に大きな意味を見出しています。「神さまは、人間の弱さにこそ宿る」という言葉があります。わたしが何故キリスト教に出会い、それを学び、牧師になったのかという問いの答えもここにあるのかもしれません。強い人間、立派な人間には神さまは不要なのかもしれません。ひとりでは生きられない弱さを抱えているからこそ信じるものが必要だったのかもしれません。自分さえも信じられなくなるときに、少なくとも一つ本当に信じるものがあることに心の安らぎを得られるのかもしれません。少なくともわたし自身はそう思うことがあります。人間が自分自身の弱さを知るとき、神さまはその弱さにそっと寄り添ってくれているのだと信じているのです。わたしたち人間に対して強くなることを求めるのではなく、弱いままであったとしても信じ愛して下るという神さまの姿に安心することができるのです。

ヨハネの手紙はこう語ります。「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちに示されました。」(4:9)親が子どもを送ったのだといいます。神は、独り子という大切な存在をこの世界へ送ったのです。これは、神のわたしたち人間に対するこれ以上ない信頼のしるしであり、愛のあかしです。そのことによってわたしたちが生きるためだというのです。信頼や愛のない世界にわたしたち人間を生かすのではない。信頼や愛のある世界にわたしたちを生かそうとしておられるのです。神の語りかけは、わたしたち人間には受け取ることが難しい事柄も含まれており、理解しにくいこともたくさんあります。これまでそうであったように、これからもそうだと思います。けれども、わたしたちにはまだ生きられる人生があります。未来があります。希望があります。

今日わたしたちが受けとめたいのは、信頼や愛を持ってわたしたちを見守って下さる存在が、わたしたちにイエスという独り子を送って下さったのだということです。そして、そのことを憶えて2000年もの間、クリスマスは祝われ続けているのです。クリスマスとはわたしたち人間に対する神の信頼と愛のしるしなのです。このとき、わたしたちはお互いの間にあるはずの信頼や愛をもう一度見直してみたいと思います。さらに、信頼される人になりたいとか愛される人になりたいと考えるのではなく、具体的に、まず自分から、隣人を信頼し愛する人になりたいと思うのです。信頼がない、愛がないと嘆くのではなく悲観するのでもなくです。まず、わたしたち自身から信頼や愛をつくり出したいと願うのです。クリスマスという神の行為、そしてイエスの生涯とはそのようなものだったからです。


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