光は暗闇で輝く

宗教主任 石 垣 雅 子

〜聖書の言葉〜

光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。

新約聖書 ヨハネによる福音書1章5節

1. クリスマスって何?

 わたしたちは毎年クリスマス礼拝を行っています。クリスマスとは何か。言うまでもありません。イエス・キリストがわたしたちの生きるこの世界に生まれてきた日です。どうして、イエスなんていう人がこの世に生まれてきたことを感謝し、祝い、集い、礼拝を行わなければならないのでしょうか。わたしたちのいるこの学校がキリスト教の学校だからでしょうか。そうかもしれません。でも、ここに集っている多くの皆さんはキリスト者ではありません。

 わたしは普段「聖書」の授業を生徒たちに教えているわけですが、ときとしてこういう声が出ます。「自分は何も信じていない。ましてやイエスだのキリスト教なんて信じられない」というのです。そういう声に対してわたしは何と答えていいのか。正直困ることがあります。

 だからこそ、このとき、イエスのことを考える機会を持ちたいと思います。何故なら、イエスがこの世界にやって来たことには意味があり、イエスの生涯をたどってみるとき、わたしたちは様々な事柄を学ばせられるのだと思うからです。その人生は、わたしたちに色々なことを示してくれているのだと思います。そして、そのことはキリスト者であろうとなかろうと変わりないと思います。

 そんなことを言ってもだまされないとお考えの人いるかもしれません。自分はイエスに生まれてきてくれと頼んでいない。それもイエスの誕生は2000年も昔のことじゃないか、自分とは関係ないことだと思う人もいるかもしれません。しかし、考えてみれば、わたしたちそれぞれの人生も、誰かに頼まれて生まれたわけでも、誰かに頼まれてこれまで生きてきたわけでもないのです。誰か他人のために生まれてきたのではないわけです。

 しかし、わたしたちはそれぞれひとりぼっちで生きているのではありません。わたしたちは、ときとして、誰かを支え助け得る人間となることがあります。他人のためになれることがあるのです。それは、わたしたちにささやかな喜びを与えてくれます。逆に、自分が誰かから支えられ助けられることもあります。誰もが自分だけで手一杯なはずなのに、わたしのことを考えてくれた。それはわたしたちにしみじみとした感謝の気持ちを呼び起こします。もし、このような、お互いに支えたり助けたりの関係がなければ、この世界は生きていくことが困難で苦しい世の中になってしまうことでしょう。

2. イエスの時代

 イエスが生まれてきた時代は、マタイによる福音書によればユダヤ王ヘロデの時代、ルカによる福音書によればローマ皇帝アウグストゥスの時代だったと記されています。 歴史的に言えば、パクス・ロマーナと呼ばれたときです。権力を持つ者のみが幸せであり、身分の低い者にとってはつらく厳しい時代でした。人々は過酷な税金の取り立てに苦しめられていました。生きていくのに必死で他人を顧みる余裕などない時代だったろうと想像できます。

 イエスはそのような時代のただ中に生まれてきました。しかも、ルカによる福音書によれば、生まれたばかりのイエスは布に包んで飼い葉桶の中に寝かされたと言います。自分では何をすることもできない無力な弱い赤ちゃんとして、わたしたちと同じようにして生まれてきたのです。加えて、マリアとヨセフには泊まる場所がなかったと記されています。わざわざそんなことまで書いてあるのです。せっかく書くなら、もっと神々しいところに、もっと立派なところに生まれてきたことにすればよかったのにと思います。でも、イエスは人々が暮らしているこの世界の、片隅の、誰も顧みないような粗末な場所で生まれてきたとわざわざ書いてあるのです。

 そして、生まれたばかりのイエスを見にきたのは野原で野宿していた羊飼いたちでした。当時、羊飼いというのは人々に見下げられており、汚れた仕事だと考えられていました。社会的に地位もなく、お金もなく、自分たちだけで仲間を作り、野原で羊の番をしながら生活していた人々です。極端な言葉で言えば、社会からはじき出され、人間としてあまり価値をおかれていなかった人々です。この世界の片隅に生きていた人々です。そのような人たちに対して真っ先にイエス誕生の知らせが告げられるのです。

3. 羊飼いと占星術の学者のこと

 知らせを受けた羊飼いたちは救い主イエスを探しに出かけます。ベツレヘムの町に生まれた、布にくるまって飼い葉桶の中に眠っている赤ちゃんが自分たちの救い主なんだと聞いて、急いで出かけて行くのです。あなたがたのために救い主が生まれたという知らせを聞いて、その知らせを受け入れ、自分たちで出向いて行くのです。

 これはマタイによる福音書に描かれている占星術の学者たちも同じです。星に導かれ、はるばる遠い東の国から占星術の学者たちは、ユダヤ人の王として生まれたイエスを探し求めてやって来ます。大変な苦労をして、長い時間をかけて、一目見ようとやって来るのです。しかも、彼らは生まれたばかりのイエスに自分たちの宝物を献げます。黄金、乳香、没薬という大変高価な宝物を持参してきて、イエスに差し出すのです。

 この羊飼いと学者たちの姿には共通するものがあるように思います。これは何かを待っている姿ではないということです。消極的な姿ではなく、非常に積極的な姿だと思います。自分たちの意志でもって、救い主がベツレヘムに生まれたことを確認しに行くのです。羊飼いも占星術の学者も、多分自分たちのことだけで精一杯な人たちだったと思います。生活に余裕があるわけでも、暇を持て余していたわけでもなかったと思います。でも、知らせを受けたときに、自分たちが出かけて行く。何かをもらうことを期待しているのではなく、自分たちの側から何ができるか考え、自分たちから何か差し出すという姿だと思います。

4. イエスの人生は何を語るのか

 わたしはイエスの人生というものもまた、この羊飼い占星術の学者のようなところがあったのではないかと考えています。この世の救い主だとされるイエスは、この世の片隅のみすぼらしいところで生まれてきて、30何年かの人生を送り、最後には十字架の上で無残に殺されていきます。けれども、彼は何かを待ち続けて生きた人ではなかった。誰かが自分に何かしてくれることを待ち続けて生きた人ではなかった。自分に何ができるか考え、自分の持っているものを尽くし、自分から人々のところに出向いて行く人だったと思うのです。

 彼の生涯のことを、一本のローソクにたとえた人がいます。ローソクはどんどん短くなっていきます。というのは、ローソクは自分の身をけずってまわりを照らし続けます。光を輝かすためには、自分の身をけずらないといけないのです。もしかすると、ローソクとは自分が持っているものをまわりの人に与え続けることがその存在の意味なのかもしれません。そして、イエスはこの世の片隅に生まれ、片隅に追いやられた人と共に生き、持っているものを差し出し、片隅に生きる人々に光を照らしたのだと思います。イエスの短い生涯とは、ローソクのような、まさに自分の身をけずって、まわりの人に光を与え続ける。そのような生涯だったのだと思います。

5. 暗闇に光を灯す

 わたしはクリスマスの意味をそこに見いだします。イエスという人がこの世界に生まれた記念として、わたしたちはクリスマスを祝うのではない。サンタクロースがやってきて、わたしたちにプレゼントをくれ、わたしたちがそのプレゼントをもらうことを楽しみにすることがクリスマスなのではない。そう思うのです。

 クリスマスとは、わたしたちが他人に何をするか考える日なのだと思います。自分の持っているもので、何を差し出し、何を献げることができるか考え、行動する日なのだと思います。言うなれば、わたしたちもまた自分という一本のローソクであるということを確認する日なのだということです。

 もちろん、そのローソクは自分自身のために輝いています。けれども、同時に、他人を照らし、他人に光を与えることもできるローソクなのです。他人から光を照らしてもらうことばかりを考えて、何かをしてもらうことを願ってしまうのがわたしたちなのかもしれません。自分だけで手一杯、他人のことなんて考える余裕がないというのが正直なところなのかもしれません。

 しかし、わたしたちにできることは必ずあるのです。わたしたちはこの世を照らす光となれるはずなのです。その力は小さくわずかなものかもしれません。にもかかわらず、どんな小さな光でも暗闇の中では輝いています。そして、人々は暗い闇の中に輝く小さな光に温かさや安心感や、安らぎや励ましや希望を見いだします。イエス・キリストはわたしたちを照らす光です。気づいていようと、気づいていまいと変わりなくそうなのだと思います。わたしたち自身も、たとえ小さな力、わずかな力だとしても、わたしたち自身を輝かし、暗闇の中に光を灯し続けたいと願います。



弘前学院聖愛高等学校
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