あなたを照らす光は昇り

宗教主任 石垣 雅子

〜聖書の言葉〜

起きよ、光を放て。
あなたを照らす光は昇り
主の栄光はあなたの上に輝く

日本聖書協会『新共同訳 旧約聖書』イザヤ書 60章1節

1.

ここにマッチがあります。最近の子どもはマッチをすって火をつけられないと言われています。皆さんはどうですか? マッチ自体あまり目にする機会がなくなってきたのかもしれません。火は危ないものであり、子どもが触れるものではないと考えられてきました。確かに、火とは危険なものであります。わたしが小学生の頃のお話です。下校途中、リンゴ畑で剪定した枝や幹を燃やしていたのです。燃えて炭になっていたのが、とても美しく思えたのです。枝ではさんでその炭を1個持ち帰ろうとしました。偶然そこに学校の先生が通りかかり、すごく叱られました。火は火事の原因となります。やけどの原因にもなります。「危ないからやめなさい」と叱った先生の気持ちは今になればわかります。忘れられない子ども時代の失敗談です。でも、そのときのわたしは黒い炭が真っ赤な炎を上げて燃えているのがとてもきれいだから持って帰りたいと思ったのです。

聞くところによると、炎を見つめることはわたしたち人間に安らぎや安心感を与えるのだそうです。たき火のまわりに集まるとか、キャンドルサービスをするとか、そのような場面でわたしたちは火を見つめます。そして、その炎の中に暖かさやぬくもりを見ているのだと思うのです。さらに、火は身体を温める力も持っています。今時期のような寒い冬になれば、冷たいものを食べるよりも火を通した暖かいものを食べる方が、体にも心にも良いわけです。熱々の鍋べものが定番の夕食だという家も多いことでしょう。人間が火を使うのを憶えたのは、はるか昔のことですが、それ以来本当に長い時間、わたしたちは火の怖さを知りながら、でも火とうまくおつき合いをしようとして生活してきたのだと思うのです。わたしたちを照らす明るさとして、そして安らぎやぬくもりを与えるものとしてです。

2.

先程ステージ上でも演じましたが、ルカによる福音書によると、イエス誕生の知らせを一番最初に聞かされたのは野宿をしていた羊飼いたちだったということになっています。羊飼いというとわたしたち日本人にはあまり身近な職業ではありません。が、もともと遊牧民であったユダヤ人には最も身近な動物が羊であったようです。肉は食用に、毛は織物に、そして皮もテントなどに利用し、捨てるところはなかったとのことです。人々から羊を預かり、その世話をしている羊飼いたち。草や水を求めながら、野原で生活していた人々です。更に、彼らは役に立つ欠かせない仕事をしていながら、人々に見下げられ馬鹿にされる立場にいた人々でした。そのような人々の、ある夜に、びっくりするような出来事が起こるのです。

そのときのことを、聖書はこう伝えます。《すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。》おそらく、とても明るい光が暗い野原に照り輝いたのだと思います。暗いときに、いきなり光を浴びせられたら誰だってびっくりするでしょう。このときの羊飼いは、まさにそんな状況だったのだと思います。しかし、天使は羊飼いたちにこう告げます。《「恐れるな、わたしは民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ、主メシアである。》」暗い中に生きざるを得ない、そんなあなたたちのために、今日救い主が生まれてきたのだと語るのです。布にくるまって飼い葉桶の中に眠っている赤ちゃんこそ、その救い主なのだと告げるのです。だから、羊飼いたちはすぐに行動します。ぐずぐずせずに急いでベツレヘムまで行くのです。天使が知らせてくれた出来事の証人となるためにです。

他方、マタイによる福音書のイエス誕生物語において、イエスを見に来た人々は占星術の学者たちであったと記されています。学者たちも、暗い中を旅して来た人々であったと想像します。彼らを導いたものは、星です。星を見るためには、夜でなければなりません。昼間でも若干は見えるらしいのですが、よく見るためには暗い夜でなければならないでしょう。学者たちは、異邦人です。おそらくペルシアあたりからやって来たのだろうと思われますが、何ヶ月も場合によっては1年くらいかけてやって来たのだろうと想像されます。暗い中に星を見つめながら、はるばる旅をしてきたのです。自分たちは異邦人だけれども、ユダヤ人の王が誕生するならぜひ会いたいと、黄金、乳香、没薬という当時の世界の宝物を携えてです。そして、彼らもまたイエス誕生の出来事の証人となるのです。

3.

もし、羊飼いたちが「今は羊の世話で忙しいので明日にします」とか、占星術の学者たちが「はるばる遠いユダヤまで夜に長い旅をするのは危険すぎるのでやめます」とか言っていたら、どうなっていたでしょうか。おそらく聖書の中のイエス誕生物語は全く違うものになっていたことでしょう。誰も来てくれる人がいない中、マリアとヨセフは「本当にこの子を産んで良かったのかしら」と不安になってしまう物語が描かれていたかもしれません。「誰も生まれてきた子を救い主とは認めませんでした」と聖書に書いてあったかもしれません。

わたしたちがいつも陥ってしまうのは、そのような後ろ向きな考え方です。「もし失敗したらどうしよう」とか「うまくいかないんだったら最初からあきらめた方がいいのかも」とか「わたしがやらなくても誰かがやってくれるはずだ」とか、そのような考え方です。うまくいかなかったときの言い訳を考えて、やらない自分自身に予防線を張ってしまうのです。不安に駆られて、できない理由をまず並べてしまうのです。もちろんどう頑張ってもできないことがあることはわかります。が、最初からあきらめたらどんなことだってできるようになるはずがありません。まずはやってみる。チャレンジしてみる。トライしてみる。そこから何か見つかることがあるし、できないと思っていたことが何とかできたりすることもあるのだと思うのです。そして、失敗したとしても学ぶことはあるはずなのです。

羊飼いたちも占星術の学者たちも、もし失敗したらというようなことを考える人々ではなかったことに、わたしは感動します。彼らは、その子に会いたいと思って、一生懸命暗い中を行動するのです。だからこそ、飼い葉桶の中に眠る赤ちゃんイエスを自分たちで探し当てるのです。何故そうできたのでしょう。それは、彼らの心の中に燃える炎があったからではないでしょうか。彼らを動かす原動力、それは暗い夜天使から「今日ダビデの町であなたがたのために救い主がお生まれになった」と聞かされたときに羊飼いたちの心の中に点火された炎であり、東方で見た星に導かれながらユダヤまで行こうと決意したときの占星術の学者たちの心に灯る炎であったのではないでしょうか。

4.

心が燃えるという表現があります。この両者は、そのとき心が燃えたからこそ、どんなに暗い中であったとしても、その燃える心に突き動かされたのだと想像します。心の中の炎に従って、不安を乗り越えてベツレヘムのマリアとヨセフ、そして赤ちゃんイエスのところまでたどり着いたのではなかったかと想像します。そして、そのような人々がいたからこそ、マリアとヨセフもまた「この子を産んで良かった」ととても安心したのではなかったでしょうか。たき火の前にいて、炎を見つめているような、そして火に暖められているような気持ちになれたのではないでしょうか。火は、受け継がれていくのです。誰かの心に燃える炎が、また誰かの心を暖めることになる。クリスマスという出来事の裏には、心の炎のリレーがあったのだと、わたしは思います。

今、皆さんの心の中に燃える炎はありますか。もしかしたら、ない人の方が多いのかもしれない。でも、きっとマッチが何本かはあるはずです。マッチの使い方がわからない人やうまくすって火をつけられない人はマッチの使い方を学んで下さい。心の中のマッチは、実際のマッチよりは火をつけにくいかもしれません。でも、必ずつけることができるはずです。あなたがつけた心のマッチは、明るい炎となって、あなた自身を照らすことができます。そして、あなたが輝くことで、まわりの人を照らすことができます。炎はリレーするのです。受け継がれるのです。神さまが望むのは、あなた自身の人生を輝かせる生き方です。そして、あなたが輝くことで隣人を輝かせることのできる、そのような生き方です。今年クリスマスを迎えるにあたり、クリスマスという出来事が伝えているのは、そのことだと、わたしは考えています。



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