なお、低く下って

宗教主任 石 垣 雅 子

〜聖書の言葉〜

主はすべての国を超えて高くいまし
主の栄光は天を超えて輝く。
わたしたちの神、主に並ぶものがあろうか。
主は御座を高く置き
なお、低く下って天と地を御覧になる。

日本聖書協会『新共同訳 旧約聖書』 詩編113編4−6節

1,「早く。早く」

先日わたしはこのようなことを知りました。わたしたちが食べるカップラーメンは1分でも食べられるようになるし、5分待っても良いように作ることができるのだそうです。技術的には何分に設定することもできるらしいのです。でも、1分だと短すぎるし、5分だと長すぎる。日本人には3分待つというのがちょうど良いのだそうです。それで3分という時間で食べられるようにしているものが多いのだそうです。3分を超える待ち時間だといらいらしてしまうわたしたちに合わせて、ほとんどのカップラーメンは3分という適度な時間設定にしてあるのだそうです。

しかし、何でもかんでも、「早く、早く」ということを追求しているのがわたしたちが生きているこの社会のようにも思います。新幹線という乗り物も、あれだけ速いスピードが出せるようになったのに、未だに速さを追求した研究がなされています。子どもたちが親から言われる言葉で一番多いのも「早く」だそうです。「早く起きなさい」「早くご飯を食べなさい」「早く勉強をしなさい」「早く寝なさい」……。生徒の皆さんも日々そう言われてはいないでしょうか。大人の方々も、自分の子どもたちに思わずそう言ってはいないのでしょうか。早くできることは良いことで、時間がかかることは良くないこと。早くできたならもっと早くできるようにという考え方が当然のこととなっている気がしてなりません。じっと待って自分で考えるよりも、すぐに答えを欲しがる傾向にあるように思われてなりません。

わたし自身も、これまでの生活の中時間に追われるように過ごしてきた部分があると感じています。もう少し余裕があればと考えることもしばしばありました。これは皆さん同じでしょう。わたしたちに与えられている1日は同じように24時間ですから、睡眠時間を削ったとしても、しなければならないことに向き合い、それを何とかこなすことに必死にならざる得ないのではないかと思います。待つことが大事だと考えたとしても、すぐに結論を出さなければいけないことがある。そして、瞬時の決断が求められることがある。だから、何でも早くしなければならないと思いこんでしまうのかもしれません。「早く。早く」と何かに急かされるようにして時間を過ごしてしまっているのかもしれません。

そして、そのような価値観は何かが「早く」できない人々を排除したり、無能だとレッテルを貼ったり、役立たずだと判断したりしまっているのかもしれません。「勝ち組」と「負け組」というような言われ方をしていますが、早く何でもこなし、たくさんのものを持っている人が「勝ち組」です。逆に、色々なことがうまくできず、あまり多くのものを持っていない人が「負け組」です。人にはそれぞれ個性が与えられており、みんな同じにはできていません。能力や才能、そして環境や運も平等ではありません。何でも「早く」できる人もいますが、他人よりも多く時間がかかる人もいます。そして、あえてゆっくり時間をかけなければならないこともあります。何でも「早く。早く」と急かすあり方が決して正しいとは思えません。そう言いながら、わたし自身もそういう考え方に絡め取られている部分が大きくあることを反省させられます。

2,「早く」できない人々だからこそ

聖書の主人公はイスラエル民族と呼ばれる人々です。イスラエル民族がどうして神と出会い、神との関係を作っていったのかというと、決して有能ですばらしい民族だったからではなかったようです。むしろ、イスラエル民族とは弱くて、もろくて、何事につけ「早く」はできない民族だったと言った方が良さそうです。例えば、旧約聖書の申命記にはこのように記されています。「あなたの神、主は地の表にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。」(7章6,7節)ということは、数が多かったからとか、特別なことができたからとか、そういう理由で神との関係を築いていったのではないということです。駄目で無能、やることなすことうまくいかない。国が滅ぼされたり、みんなちりぢりバラバラになったりする。そのような民族だったのに、あえてそのような民族を神は選んだのだということなのです。

しかし、このイスラエル民族は待ち続けた人々でもありました。自分たちをこの困難な状況から救い出してくれる存在をひたすらに待ち望んでおりました。いつの日か、この苦しみから解放してくれる存在がやって来るのだと一筋の希望を持っていたのです。しかし、待っているのになかなか来ない。そういう中で待ち疲れてしまっていたのだろうと思います。待つことは辛いことです。どうせ駄目なんじゃないかとあきらめてしまいたくもなります。

そんなイスラエル民族の歴史のただ中に、一人の男の子が与えられました。今からおよそ2000年前のことです。マリアとヨセフという夫婦に与えられた一人の男の赤ちゃんです。名前をイエスと言いました。待ちに待った救い主の誕生です。ところが、この救い主、もっと立派なところに生まれてくればいいのに、みすぼらしくて粗末な場所に生まれてきたと聖書は語ります。ルカによる福音書によれば、「布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。」(2章7節)とあります。宿屋にも泊まれない。生まれたばかりの赤ちゃんのベットは牛や馬の餌を入れる粗末なバケツだったというのです。

そして、自分たちを困難な状況から救い出して下さる存在を待ち望んでいた多くのイスラエル民族には、その子の誕生は知らされなかったのです。イエスの誕生を知り、駆けつけたのはマタイによる福音書によれば、東方からやって来た占星術の学者たちです。彼らは異邦人、すなわちイスラエル民族ではありませんでした。一方、ルカによる福音書によれば、野原で野宿していた羊飼いたちでした。当時の社会において汚れた仕事として見下げられ、さげすまれ、軽蔑されていた人々です。一体どうしてそのような人々に一番最初に告げ知らされたのだろうと考えます。待ち望んでいる存在が誕生したのだから、もっと大々的に華々しくたくさんの人々がやって来て、誕生を祝えば良いと思いませんか。もっと立派な場所に、少なくとも飼い葉桶をベットにしなければならないような粗末な場所に生まれなくても良かったのではないでしょうか。

しかし、わたしはこのことの中に意味を見出します。救い主は確かに待ち望まれた存在だったのだけれど、ひっそりと粗末な場所に生まれ、ごく限られた人々にしかその知らせが告げられなかったことには深い意味があると考えているのです。わたしは思うのです。今が辛いからこそ救って下さる方が来るのを待ち望むのではないだろうか、と。いや、待ち望まざるを得ないのだと。困難で打ちひしがれているからこそ、助けて下さる方が来るのを待っているのだ、と。そう考えると、占星術の学者たちも、野宿していた羊飼いたちも待っていた、心から、本当に待っていた人々なのだと思います。そういう人々のところに救い主の誕生の知らせが告げられていく。そして、だからこそ彼らは、その知らせを信じて救い主を見に行く。会いたいと思う。一目見たいと願う。だから、みすぼらしい粗末な場所の飼い葉桶の中に眠る赤ちゃんを見に行くのです。待っていたから、心から待っていたからすぐに行動できたのではなかったかとわたしは想像します。何事でも「早く。早く」できる人々には知らされず、「早く」できない人々に、救い主イエスの誕生はいち早く知らされたのではなかったかと思うのです。

3,待っていた人々に与えられるプレゼント

それは、わたし自身の今の状況から思わせられることなのかもしれません。わたしは今病気を患っております。一時期に比べればだいぶ良くはなりました。わたしが患っている病気は「ウツ病」と呼ばれるものです。簡単に言えば、脳の中の生きるエネルギーを引き受けている部分がうまく機能しなくなるのです。生きることを引き受ける部分が機能不全になるわけですから、色々なところに「しょうがい」がでました。眠れない。食べられない。やる気が出ない。判断できない。何事でも「早く」できるはずだったのに「早く」どころか何もできなくなる。惨めでした。ボロボロでした。みんなはどう見るんだろうと考えました。不安になりました。「こんな自分じゃないはずだ」と叱咤激励もしました。何でこんなに苦しく辛い目に遭わせるんだと神さまを恨みたくもなりました。が、様々なことをこの病気を通して学ばせられているのだと思っています。そして、わたしは今待たなければならない時期を過ごしているのだと考えています。だから、自分の状態が良くなっていくことを待っています。それが辛いことであったとしてもです。

クリスマスとは、神さまのわたしたち人間に対する愛のかたちです。待っている人々に与えられるプレゼントです。そのプレゼントはわたしたちと同じ人間として、マリアとヨセフという夫婦の間に与えられたのです。無力な一人の赤ちゃんとして、わたしたちに贈られたのです。そのことを心にとめ記念するのがクリスマスです。ひたすらに待っていた占星術の学者たちや羊飼いたちに、今という一瞬一瞬を生きている皆さんに、苦しい中にいるわたしに、そして、わたしよりも困難な現実の中に置かれている人々に、イエスというプレゼントを神さまは与えたのです。高いところに立って人間を見下ろすのではなく、わたしたち人間のところまで降りてきて下さったのが神の子イエスです。人間を愛したが故に、神が人間となってこの世に下って来るのです。

たとえ、わたしたちの今がどんな状況にあろうともイエスはこの世界にやって来たのです。神さまはわたしたちにイエスを贈ることを通して愛を示して下さったのです。そして、イエスは権力を持って人々の上に立つのではなく、徹底的に苦しく困難な日々を送らざる得ない人々と共に生きようとなさったのです。ということは、その生涯を賭けてわたしたち人間、とりわけ弱い立場や苦しい現実の中におかれていた人々を具体的な行為でもって愛したということです。その結果、彼は最期には十字架につけられ死んでいきます。

クリスマスのこのとき、わたしたちに与えられた神の愛の意味をもう一度思い巡らしてみたいと思います。わたしたち人間同士でさえも愛をやりとりすることは難しいのかもしれません。愛しているが故に傷つけたり、愛していると語りながら自分の思いを押しつけてしまったりしがちなわたしたちです。愛することに疲れてしまったり、愛することをモノやお金で操ろうとしてしまいがちなわたしたちです。けれども、そんなわたしたちをも神は愛して下さっています。信じて待って下さっているのだと思います。愛するとは手を出し介入し解決してくれることではありません。ただじっと待っていて下さることではないでしょうか。わたしたちは神さまから愛され、見守られています。その深い愛情に支えられながら、それぞれ人生という歩みを一歩一歩、たとえ、その歩みがゆっくりであったとしても進めていきたいと願うものです。



弘前学院聖愛中学高等学校 http://www.seiai.ed.jp/