この世を愛する神

宗教主任 石 垣 雅 子

〜聖書の言葉〜

 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。

新約聖書 ヨハネによる福音書 3章16節

 天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」

新約聖書 ルカによる福音書 2章10−11節

I. 2000年前も、今も

 もし自分自身の人生をそれぞれ一枚の絵に描くとしたなら、今あなたはどんな作業をしているところでしょうか。デッサンや下書きは終わったでしょうか。色は塗りはじめていますか。それとも、もう間もなく完成しようとしているのでしょうか。鉛筆書きは終わったものの何色に塗っていいか迷っている人がいるかもしれません。あるいは、もしかすると、暗くくすんだ色を塗っている人がいるかもしれません。大人の人も完成するはずの絵を描きあぐねているところなのかもしれません。描きはじめたときはこうなると思っていなかった予想外の方向に進んでしまって、どうしていいやら途方に暮れているかもしれません。希望のなかなか持ちにくいこんな時代だもの、明るい色になんか染められないとあきらめかけているかもしれません。

 わたしたちの生きているこの時代は言うまでもなく混沌としています。未来に対しての夢を持ちにくい時代であると言われています。暗いニュースばかりが伝えられ、みんながその中で戸惑っています。それぞれの心の中にあきらめや妥協が生じ、「どうせこんなものだ」とか「なるようにしかならない」「仕方ない」とか口にするようになってしまっています。だから、それぞれの人生を描こうとしても暗い絵の具やくすんだ絵の具ばかりをパレットに広げてしまうのかもしれません。

 イエス・キリストの生まれた2000年ほど前のユダヤもわたしたちの生きている今と同じような時代だったのではないかと思われます。当時の世界にはローマ帝国という国がありました。この国は強大な軍事力を持ち、戦争によって国々を次々と滅ぼし、周辺地域を自国の支配下に入れていきました。そして、その地域の住民から税金を搾り取り、収穫物を搾取していきました。ローマによる過酷な支配が行われていたのです。イエスが生まれたユダヤもそのようなローマの支配下におかれていました。その時代もまた、一言で言うならば、希望の持ちにくい、先の見えない暗いくすんだ時代であったということができるでしょう。

II. そんな時代のただ中に

 そんな時代のただ中にイエス・キリストは生まれてきたのです。イエスという存在は「昔々あるところに」という昔話の中の主人公として生まれてきたのではありません。マタイによる福音書によればユダヤ王ヘロデの時代、ルカによる福音書によればローマ皇帝アウグストゥスの時代で住民登録をせよと命令が出たときだとそれぞれ記されています。とても具体的です。ローマの支配の中で人々が毎日何とか生活している、泣いたり笑ったりしながら生きていた歴史のただ中に生まれてきたのだというのです。

 けれども、イエス誕生の出来事は人々の生活からは見えにくいようなところで起こったと聖書はさりげなく伝えています。ルカによる福音書は、マリアはイエスを出産し布にくるんで飼い葉桶の中に寝かせたと書いています。「宿屋には泊まる場所がなかった」と書いてありますし、飼い葉桶の中に寝かせたということからも、おそらくイエスが生まれたのは家畜小屋の中でのことだったのだろうと想像されます。イエスの出産はたくさんの人々に見守られながらの大イベントではなくて、マリアとヨセフ、そして牛や馬が見つめる中での出来事だったのでしょう。人々に気づかれないような粗末な場所で、ひっそりと行われたのでしょう。大きな歴史の流れの中、その片隅でひっそりとイエスはこの世に生まれてきたのだというのです。

 そして、イエス誕生の知らせを一番最初に告げられたのも世の片隅でひっそりと自分たちの日常を生きていた人々でした。聖書は、飼い葉桶のイエスのところへ駆けつけてきたのは野原で羊の番をしながら野宿していた羊飼いたちだったと語ります。当時の社会において、羊飼いとは社会的な地位が低く馬鹿にされていた人々です。加えて、律法というユダヤ教の規定によれば、彼らは汚れた仕事をしている汚れた人たちだと考えられておりました。しかし自分たちが生きていくため、そして人々の生活を成り立たせるためそれを生業にしなければならない人々がいたのです。彼らは羊のために草や水を確保し世話し、夜になれば番をしながら羊と共に野原で野宿していました。それが彼らの仕事だったのです。町の中で暮らしている人々の目にはふれないところで仕事をしていた人々なわけです。

 そのような人々の日常に、ある夜突然天使がやって来ます。天使は「今日、ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった」と告げるのです。羊飼いたちはその知らせを信じてベツレヘムの町まで急いで出かけて行きます。知らせを素直に受け入れ神が知らせてくださったその出来事を自分たちの目で見ようとするのです。わたしはこの羊飼いたちの姿に関心させられます。「今羊の番をしているから後で行きます」とか「忙しいので今は無理です」とか言っていないのです。「今日」と言われて、すぐに見に行くのです。もしわたしだったらと考えてしまいます。何だかんだと理由をつけて、後回しにしてしまいそうな気もします。でも、羊飼いたちは後回しにはしませんでした。「今日、あなたがたのために」と言われて、それに素直に従い、救い主誕生を祝いに出かけて行きます。すぐに行動に移しているのです。ぐずぐずしてはいないのです。

 この世の片隅でその夜の日常を過ごしていた人々に、この世の片隅で生まれた救い主イエスの誕生が一番最初に告げ知らされていきます。羊飼いたちは羊とずっと一緒にいるのが仕事ですから家を持っていなかったでしょう。毎晩野宿する野原が家がわりだったでしょう。想像してみるだに厳しい仕事です。加えて、先に述べましたように、彼らはみんなに馬鹿にされ、差別され、疎外され、それでも毎日その仕事をせざるを得ない人々です。そのような面から考えてみても厳しい現実があります。が、そのような人々にも日常があります。生きていく毎日があります。彼らも泣いたり笑ったりしながら羊と共に生きていたことでしょう。

 おそらく羊飼いたちは人々に顧みられていなかったが故に、かえってその知らせを真剣に受けとめたのでしょう。多くの人が相手をしてくれない差別と疎外の現実。律法という絶対の価値基準から汚れた者としてはじき出された現実。そのような中にあったからこそ、神は救い主誕生の知らせを一番最初に羊飼いたちに知らせたのでしょう。日々を喜べない現実にある人々に、神から「喜びなさい」というメッセージが届けられるのです。厳しい現実にある人々だからこそ、喜びの知らせがいち早く知らされたのです。

III. どんなに暗い中にあろうとも

 そのことは、今ここに生きているわたしたちも同じなのだと思います。今ここにいるわたしたちそれぞれは羊飼いのようには厳しい現実の中におかれてはいないかもしれません。でも、やはりわたしたちにはわたしたちなりの苦しみがあり困難があります。涙したり、ため息をついたりの毎日があります。そのような中で日々の生活に疲れ果ててしまうこともあるわけです。そして、何かをあきらめたり、何かに妥協したり、他者に対して「どうせ」とか「だって」「でも」と口にしてしまったりもするわけです。わたし自身もやはりそうです。人生という絵を自分自身で描き上げることを放り投げ、流れに身を任せてしまうそうになってしまうことがあるのです。あるいは、「ぬりえ」のように、誰かが書いてくれた下書きに程良く適当に色をつけお手軽に人生を染め上げてしまおうとしてしまうことがあるのです。

 しかし、そのようなわたしたちにも2000年前羊飼いたちに告げられた知らせが今届いているのだと思います。それは「今日、ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった」という知らせです。これは羊飼いたちのみならず、時代を越え場所を越え今を生きるわたしたちに対する言葉でもあります。神からわたしたちへの愛のメッセージです。希望のメッセージです。

 このことについてヨハネによる福音書は「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」と語ります。この独り子とはイエス・キリストのことです。イエスはわたしたちの生きるこの世界に神から遣わされました。具体的には、マリアという一人の女性がベツレヘムの家畜小屋で彼をこの世に産み落としたのです。それがクリスマスです。神からの独り子がこの世に遣わされ、彼はその生涯を困難な現実と闘っている人々、厳しい日常を送っている人々と共に過ごしました。それらの人々を愛し慈しみながら人生を送りました。彼に出会いその姿にその言葉に励まされた人がたくさんいました。いや、今もなお彼と出会い励まされている人がたくさんいます。

 彼はわたしたちの人生に一色の絵の具を与えてくれます。愛という絵の具です。わたしたちそれぞれが人生という一枚の絵を描き上げるのに欠かすことのできないとても大事な絵の具です。それは、神がわたしたちに与えてくれたかけがえのないプレゼントなのです。たとえどんなに暗い世界の中にあったとしても、たとえどんなにくすんだ色の現実にあったとしても、わたしたちはそれを用いることができます。どうしていいやら途方に暮れている人も、希望がなかなか持てないとあきらめかけている人も、彼に出会うことによって、彼の姿や彼の言葉にふれることによって、愛という絵の具を手に入れることができるのです。

 飼い葉桶の中に寝かされた生まれたばかりの赤ちゃんイエスに出会った羊飼いたちもおそらくその絵の具を手に入れたことでしょう。彼らの困難で厳しい現実が飛躍的に良くなったとはとても思えませんし、相変わらずの野原での野宿生活が続いたことでしょう。でも、彼らはお互いに何度も何度もあの夜のことを語り合ったことでしょう。天使が告げた「今日、ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった」という言葉を、そして急いでベツレヘムまで行ってイエスやマリアと出会った光景を語り合ったことでしょう。そして、その度に、励まされ、困難な生活の中にあったとしても精一杯生きる勇気と希望とを得たことでしょう。わたしはそう思うのです。

 今わたしたちの生きるこの世界がどんな状況であったとしても、神はわたしたちを愛して下さいます。わたしたちがどのような現実にあろうとも、独り子イエスを遣わしたほどに愛して下さいます。だからこそ、どんなに暗いくすんだ色の中にあろうとも、それぞれ自分の人生に、そしてこの世界に対してもあきらめずに希望を持ち続けたいと願います。さらに、わたしたちはそれぞれの人生を愛という絵の具を用いながら描き上げていきたいと思います。そのことこそが、この暗いくすんだ世界の中に一筋の希望の光をもたらすことになると信じるからです。



弘前学院聖愛高等学校
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