宗教主任 石垣 雅子

聖書の言葉

イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。

日本聖書協会 新共同訳 新約聖書マルコによる福音書2章5節

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1月の半ばのことでした。わたしは右足に痛みを感じ、うまく歩けなくなりました。普段あたり前にできていることができない状態が続きました。足を引きずりながら歩かざるを得ないのです。階段を登るのも大変でした。そして、右足であるが故に、なおさら大変不自由でした。右足でアクセルとブレーキが踏めないので車の運転ができませんでした。皆さんの中でも怪我をした経験のある人はおわかりになるでしょう。普段できることができないことはとても辛いことです。幸い何日かで改善しましたが、病気や怪我とは本当に苦しく辛いものだと思わせられました。

先程読んでいただきましたが、ご一緒に考えてみたい聖書の箇所にも病気の人が出てきます。中風の人であったと書かれています。脳疾患の1つです。脳卒中などの後遺症として起きる身体の麻痺状態のことを言います。身体がうまく動かせない状態であっただろうことが想像されます。辛いことです。加えて、イエスの時代は病気の人に対してひどい扱いがされる時代でした。当時、病気の人や障がいを負った人は「自分かあるいはその先祖が悪いことをした報いなのだ。だから今の状態は引き受けなければならない運命なのだ」と考えられていました。そして、差別されたり疎外されたりしたのです。律法という当時のユダヤ社会において絶対の価値基準の範囲からはずれた存在として、汚れた存在として生きざるを得なかったのです。とてもひどい社会です。でも、福音書に描かれているイエスの時代とは、そのような考え方があたり前にされる状況であったのです。

今日、この中風の人には友達がいたということにまずわたしは注目します。マルコによる福音書では、四人の男です。イエスが話をしている家の屋根をはがして、この中風の人を寝ているベットごとつり降ろしたとあります。《大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまないほどになった》とありますから、家の中に人がぎっしりだったのでしょう。それらの人々の迷惑を顧みずに、屋根がベリベリっとはがされ、寝かされたままの中風の人が降りてくるのです。イエスの話を聞いていた人たちもびっくりしたでしょう。そこまでしてしまう行動力は本当にすごいと思います。

四人の男は、友達である中風の人のために、覚悟を決めて行動します。他人の家の屋根をはがしてでも、この友人のために何とかしようとするのです。他人の目なんて気にしていたらできません。文句を言われたとしても、かまわない。それくらいの覚悟です。この友人を病気の苦しみから解放してやることが自分たちのできることなのだと考えたのかもしれません。中風の人が、もう一度立ち上がり、自分たちと、かつてできたように動き回れる日が来ることを願ったのかもしれません。この人のために何とかしたい。自分たちができることをしたい。最善を尽くす。やるしかない。他人の目を気にするより、自分たちができることを何とかかんとかやろうとした。たとえ少しばかり迷惑をかけたとしても、行動する。そのような姿にわたしは本当にびっくりさせられ、また感動させられます。

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考えてみるに、わたしたちがなかなかできないでいるのは、彼らのような行動なのではないでしょうか。まず他人の目を気にしてしまう。それ故に、自分が本当にやるべきことができないでいる人は多いように思います。皆さんのクラスに授業に行ったとき、挨拶やり直しになったクラスがありますね。あるクラスでは、「挨拶できない人は、これから人に接する仕事につくのは無理ですから」とすら言いました。授業のとき、「起立・礼・着席」の「礼」が挨拶ですよね。その挨拶ができない人は、これからどうやって知らない人と関係を結んでいこうとしているのでしょう。人と人との関係の一番最初が挨拶だとすれば、「おはようごさいます」「こんにちは」「こんばんは」を声に出して相手に聞こえるように言えなかったら、挨拶ができない人です。他人が言わないから、自分もしない。他人基準の考え方です。そういうのは残念です。残念な人を「聖愛高校の卒業生」として卒業させるのは嫌なので、わたしは指導しました。他人がどうするかではありません。自分がどうするかです。自分の今とるべき行動を他人に決めてもらうのではなく、自分自身で決めることです。

ここで少し、わたしの卒業した学校についての話をさせて下さい。京都にある同志社という学校です。わたしは同志社で、大学・大学院の間、7年間を学びました。同志社を創立したのは、新島襄という人物です。新島襄という人は、江戸時代末期に函館から出国し、アメリカに渡り、アメリカの大学と神学校で学びました。そして、日本に帰国し京都に同志社を設立しました。キリスト教の考え方に基づく、学びたいと思う誰もが学べる学校を明治という新しい時代のために創ろうとした人です。新島の人生は苦労の連続でした。結果的には、お金を集めるために自分の身体に無理を重ねて、47歳で亡くなりました。新島は、自分でそうすることを決めて、自分で何とか金を集めようとし、やがて学校をつくりました。自ら行動しました。明治時代初期、まだまだキリスト教に抵抗があった時代にあって、仏教の勢力が強かった京都に、キリスト教に根ざした学校をつくりました。母校を誇るわけではありません。でも、この出来事の中にも自ら行動することが重要だったことを思わせられます。新島の行動力があってこそ、様々な人に支えられ、苦労をしながらも学校を創り出せたのだと思います。

そのように考えてみると、この中風の人は何とかしてあげたいとまわりの人に思われるような人物であったのかもしれないとも思わせられます。応援したくなるような、この人を健康にしてあげられるなら何とかしてあげたいと考えるような人物であったのかもしれません。時として人間とは、わかりやすいものです。応援したい人と、応援したくない人とを分けてしまうのかもしれません。「どうでもいい」とか「勝手にすれば」というような人は、何とかしてあげたいとは思えない。が、「一生懸命だよね」というような人は、何とかしてあげたいと思うようになります。

中風で横になり病気に苦しんでいる人を、何とかしたいと思って覚悟を決めた人々は、その人のことをわかっていたが故に立ち上がったのではなかったのでしょうか。もちろん、その人が健康でなくなっても、弱い立場に立たせられたとしても、その友情は変わらない。でも、自分たちのできる行動をする。他人がどう思おうとやるときはやる。そう思い切れたからこそ、覚悟を決めたからこそ、屋根をはがして床をつり下げたのではなかったかと思うのです。

わたしたちの人生には、このような人々が必要です。わたしたちを助ける人。わたしたちを支える人。わたしたちに心を配る人。わたしたちと共にいる人。それは、わたしたちが健康な状態にあろうと、病気や怪我をしていようと、そばにいてくれる人々です。困難な状態、途方に暮れるようなときにも、状況を打ち破ろうと自ら行動する人々です。四人の男です。わたしが、四人の男を呼び寄せるのです。自分自身の人生を懸命に生きることによってです。応援してもらえるような生き方をすることによってです。

そして、これがもっと大事なことだと思います。わたし自身が四人の男になるということです。弱い立場に立つ自分の隣人のために生きる。わたしが助ける人となる。わたしが支える人となる。わたしが心を配る人となる。わたしが共にいる人となる。隣人がわたしにしてくれるように、わたしも隣人のために生きる。その人のことを心から考え、思いやり、自分のできる最善を尽くす。聖愛が教えてきた隣人愛の精神とはそのようなものではないかとわたしは考えます。ここに登場する四人の男のように、そのときできる最善を尽くす人となることがわたしたちに求められていると思います。

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「その人たちの信仰を見て」、イエスは中風の人をいやしたと書いてあります。その信仰とは、中風の病気に苦しんでいる人を、何とかしようとつり降ろしたことです。神さまを信じると大きな声で宣言したわけでもないし、苦しい修行をしたわけでもありません。ただ、そのとき自分のできることを、勇気をもって行った。自分たちのできること、その人のためにやるべきことを行おうとした。それが、「その人たちの信仰」です。それを見て、イエスは中風の人の病気をいやし、起き上がって歩くことができるようにしたのです。

果たして、わたしたちの信仰はどこにあるでしょうか。キリスト教を信じるとか信じないとかのことではなくの信仰です。誰かのために何かをする。自分のできることを尽くす。その中にあるように思います。困難な中にある人や弱い立場におかれている人を応援する。その中にあるように思います。わたしたちが最善を尽くし、自ら行動することができたなら、そこにあるものはわたしたちの信仰なのだと思います。四人の男がやってのけたような、屋根に穴をあけて中風の人をつり下げる信仰です。そして、辛い思いをしているこの人のためにだったら何かをしてやりたいと、応援したいと思わせるような、そんな信仰です。全力を傾けるからこそ誰かが動く。わたしが頑張るからこそ、まわりの人も動かされる。そんな信仰です。

「どうせやってって無駄」「わたしがやならくても」「目立つのめんどくさい」「他人の目が気になる」と言い訳をすることはできます。わたしたちはやらないための言い訳はたくさん準備できてしまうのです。もちろんわたし自身もです。でも、そうやって言い訳をしていたら、いつまでたってもわたしは変わらない。わたしが変わらないから、当然まわりも変わらない。まわりが変わらないから、わたしも変わらない。永遠にそう繰り返すしかないのです。わたしが変われば、まわりが変わるはずです。まわりが変われば、わたしも変わるはずです。変わる方向は、良い方向にです。悪くなりたい人間などいないと、わたしは信じています。誰もが、できる限り、良い方向へと変わっていきたいのです。できるだけ、良い人になりたいのです。

四人の男の思い切った行動が、中風の人のその後の人生を変えました。わたしたちの人生も、良い方向へと変わっていきたい。そのために、わたしたちは何をすればいいのか。その答えは、聖書の中にもあるように思います。皆さんに今はそう考えていて欲しいと思います。どこに行こうと、何をしようと、聖書と讃美歌を持っていって欲しいと思っています。本棚の片隅においておいて欲しいと思っています。

最後に、わたしたちは四人の男に助けられる中風の人です。そして、中風の人を助ける四人の男です。イエスは、そのようなわたしたちを愛し、支え、導きます。わたしたちの信仰を見て、そのときにふさわしいものを与えて下さるお方です。イエスという存在に出会ったあなたたちは、イエスと共にこれからも人生を送っていくはずです。それぞれのこれからの人生がより良きものであるように願っています。そして、まず自分自身の手によって、より良きものにしようとする人となるよう、わたしは心から願っています。