宗教主任 石垣 雅子

聖書の言葉

シモンは「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。
しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。

日本聖書協会『新共同訳 新約聖書』 ルカによる福音書 5章5節

i

わたしは今年牧師になって20年目を迎えようとしています。最初の3年は北海道の教会で教会の牧師として働きましたが、それからはこの学校で学校にいる牧師(教務教師といいます)としての働きを続けています。この学校に来て16年、4月になると17年目になります。正直、縁もゆかりもない弘前という町に来て、ここまでやってこれたことは本当に感慨深いです。よく続けて来たなあという思いと、同時に、何だかあっという間だったなあという思いがあります。振り返ってみると、たくさんの困難なことや途方に暮れるようなこともありました。涙を流すようなこともありました。でも、そういう苦しかったことのことと共に、嬉しかったことや楽しかったことがたくさんあったことをも思います。様々な人々が、わたしを助け、励まし、支えて下さったことを思います。だからこそ、続けられたのだと考えています。

わたしが卒業した大学は同志社という京都にある学校です。同志社で、わたしは大学・大学院と7年間学びました。昨年のNHK大河ドラマは『八重の桜』でした。新島八重という一人の女性の一生を描いたドラマでしたが、新島八重が二度目に結婚した相手が同志社を設立した新島襄です。新島襄という人は、江戸時代末期に函館から出国し、アメリカに渡り、アメリカの大学と神学校で学びました。そして、日本に帰国し京都に同志社を設立しました。キリスト教の考え方に基づく、学びたいと思う誰もが学べる学校を明治という新しい時代のために創ろうとした人です。新島の人生は苦労の連続でした。江戸時代まで禁止されていたキリスト教をすんなり受け入れて認める人は少ない。協力してくれる人もなかなか現れない。また、学校を創るにはお金が要る。結果的には、お金を集めるために自分の身体に無理を重ねて、47歳で亡くなりました。何かをはじめることには勇気が必要です。支えてくれる人も必要です。彼は勝海舟にこう語ったそうです。「教育は十年二十年で何とかなるものではない。百年二百年かかるかもしれない」と。そう考えながら、彼は同志社を創りました。新島八重はじめの様々な人に支えられ、苦労をしながらも学校を創り出したのです。そこから百何年も時を経て、同志社で学んだ多くのうちの一人が、わたしでした。

ii

新島襄や新島八重の人生に自分の辛さを重ねるわけではありませんが、どんな人でも苦しみや困難がない人生はないのだと思わされます。皆さんもこれまで辛いことを経験したと思います。うまくいなかいとき、思うように進まないとき、わたしたちは辛いと感じます。どうしてなのかなと思います。うまくいなかいことが続き過ぎると、「どうでもいいや」と考えてしまうこともあります。やる気すら失われて、「楽な方に行こう」と考えてしまいます。自分のせいではない。苦労する必要はない。自分はこれだけ頑張ったのに、まわりが認めてくれない。悪いのは自分ではない。そんなふうに考えてしまうのです。

そのような人たちが、先程読んでいただいた聖書の箇所に登場します。この物語はゲネサレトという湖で魚をとっていた漁師たちとイエスとのお話です。たくさんの人々がイエスの話を聞きたいと押し寄せてきて、漁師たちは自分の居場所がなくなる。そんなときに、イエスは舟に乗り、沖へ漕ぎ出してくれと頼むのです。イエスの話が終わった後、漁師たちにイエスはこう言います。「沖へ漕ぎ出し網を降ろし、漁をしなさい」と。夜通しやった、どうせ網を降ろしても魚なんてとれない。網を降ろして漁をするだけ無駄だと漁師たちは思いました。だから、「先生、わたしたちは夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。」とイエスに言うのです。自分たちは夜通し苦労して頑張ってみたのだ、しかし魚はとれなかったとイエスに言うのです。魚がとれず辛い思いをしている漁師たちに、夜通し苦労した漁師たちに、イエスは「沖へ漕ぎ出し網を降ろし、漁をしなさい」と命じるのです。

漁師たちにすれば、もう一回やってみなさいということです。でも、プロの漁師たちは自分たちであってイエスではありません。わたしは漁師のプロです。それなのに、素人であるあるあなたがもう一回網を降ろして漁をしなさいと命じるのですかと思ったことでしょう。夜通し苦労しているのに、それなのに、魚が全然とれなかったのに、もう一回やってみろとイエスは語っているです。苦労なんかしたくない、できれば楽をしたい、やっと漁が終わって家で休めるのにと思ったことでしょう。イエスはこの漁師たちに酷なことを命じているのです。他人に大変なことを命じるイエスがここにいるのです。

しかし、わたしは考えさせられます。わたしたちは自分を基準にしてしまおうとしているのではないかということをです。そして、その反対に、多くの場合の基準とは「わたし」ではないということをです。わたしが大事にされなければならないことは十分わかります。でも、「わたしは○○です」と語るばかりでは何も進まないことも多いのです。「わたしはこの仕事をしたいです」とか「わたしは大変なことはしたくないです」とか、もっと言えば「わたしは楽したいです」とか「わたしは働きたくないです」とかいうことです。わたしが基準ですね。わたしの気持ちが最優先な考え方です。が、そんなことばかりを言っても、人間関係においてうまくいかないのは皆さんがご存じの通りです。「ニート」とか「引きこもり」とかいうような人ならそう生きられるかもしれません。少なくとも、どこかに所属して仕事をする場合、自分を基準にしては生きられないことは皆さんもわかって下さると思います。少し自分を曲げなければならないということをです。他人の指示を聞き、自らのなすべきことをなすということが仕事をするということだからです。これは学校生活でも同じだったと思います。皆さんは、勉強や部活動において、全て自分優先ではないということをわかって、その上で何とか頑張ってきたのだと思うのです。

イエスは夜通し苦労しても何もとれなかった漁師たちに網を降ろすことを命じます。そして、漁師たちは夜通し苦労して何もとれなかったけれど、他ならぬイエスの言葉だからもう一回やってみますと答えます。そしたら、網がやぶれそうなほどの魚がとれたと記してあります。そして、この漁師たちはイエスの最初の弟子になったのです。「わたし」を基準として生きていた漁師たちが、それまでの生き方を捨て、「イエス」を基準として生きる生き方に導かれていった物語なのだと思います。それはもしかすると、漁師をしているよりもはるかに大変で困難な生き方をすることを意味したかもしれません。が、そうせざるを得ないという強い思いに突き動かされて、新しい生き方へと導かれていったのだと思います。新島襄が、日本にはキリスト教の精神に根ざした私立の学校が必要なのだと考え、それを創り出していったようにです。

iii

もう一つこの物語から学びたいことがあります。それは、このお話を、イエスは何でもできるスーパーマンなのだと読むべきではないということです。ここに書かれているのは、イエスがおびただしい魚をとらせたという奇跡物語です。それを見て漁師たちは網を捨ててイエスに従ったわけです。でも、これだとイエスはできないことは何もないスーパーマンか魔術師みたいなものです。加えて、このとき群衆にイエスが何を話したかなんて全く書いてありません。イエスの話を聞いた人々がどれだけ感動したかとか、湖畔で網を洗っていた漁師たちもその話に聞き入ったとかはありません。そういうところがこの物語のポイントではないということです。魚がいっぱいとれたということも結果的にそうなっただけのことであって、おそらく重要な点ではないと思います。であれば、イエスにはできないことは何一つありませんでした。素晴らしい説教者でスーパーマンで魔術師でもありましたと書いてあると思います。

イエスの弟子になるとか、イエスに従うということは何か劇的な出来事が起こったからできることではないのです。人生で乗り越えられない困難があって、キリスト教を信じたらそれが乗り越えられるようになりました、すごいですねということではないということです。これはキリスト教のみならず、どのような宗教でもいかがわしくない宗教なら同じです。いかがわしい宗教は、「これを信じれば人生の困難が解決する」とか「この壺を買えば病気が治る」とか言います。それにすがって高いお金を出してしまう人たちもいます。

何かを信じるということ、すなわち信仰とは何なのでしょう。わたしは、信仰とは何かを解決する手段ではないと思います。言い換えれば、何かを信じたから必ず良い結果が与えられるというものは信仰とは言えないということです。何かを信じても苦労するときはあるし、困難な出来事に出会うこともあります。でも、そこに共にイエスがいる。そこに見守るイエスがいる。それが信じるということだとわたしは思っています。わたし自身のこれまでの人生を振り返ってみるときにも、数限りない苦しく辛い出来事がありました。何とか乗り越えてきた部分もありますし、未だに乗り越えなれない部分もあります。苦労のない人生はありません。が、どんな人もそれは同じだと思います。わたしの場合は、たまたま牧師で教師という仕事をしていますが、好きなことを仕事にできているだけ幸せなのだと思っています。わたしは牧師だから、語る。教師だから、教える。そういう人生を送っていることに充実感を感じられることを幸せだと思っています。

皆さんの高校時代は間もなく終わります。これからの人生の方がずっと長いです。この学校は皆さんに一つのささやかな贈り物をしました。皆さんの心に、キリスト教という種を蒔きました。それぞれのこれからの人生において、どこかで芽を出し、育ち、花が咲き、実が実るかもしれません。種のまま、しまっておかないで欲しいなあとは思っています。水をやって育てて欲しいなあと思っています。人生に苦しみはつきものです。仕事をするのに苦労はつきものです。が、きっとどうにかして乗り越えていくことができるはずです。そして、きっとあなたが踏み出す一歩が誰かを喜ばせることになるはずです。何故なら、聖書が教える神がイエスが皆さんの困難なときにも共にいて見守ってくれるからです。たとえ困難なことがあったとしても励まし合える仲間が与えられているからです。このままでいいと思わずに、夜通し苦労したとしても、もう一回網を入れることをいとわない人になって下さい。(2月27日 卒業礼拝)