宗教主任 石垣 雅子

聖書の言葉

シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。
しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。

日本聖書協会『新共同訳 新約聖書』 ルカによる福音書5章5節

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わたしたちは誰かから命令されることをあまり好みません。「○○をしなさい」とか「××はしないように」と言われると、それに対して反感を持ってしまうことがあるのです。すなわち、生徒の皆さんに「スカートは短くしないように」と教師が言います。「××はしないように」の一例です。わたしも含めて、しつこくあきらめずに言い続けてはいます。が、相当大変です。皆さんのような年代は大人から何かを命令されることをなかなか受け入れられないのかもしれないと考えることもあります。何かを命令されたり、強制されたりするのは誰にとっても嫌なことなのだろうと考えたりもするのです。

今読みました聖書の中にも、イエスから一つの命令をされた人々が登場しています。彼らは湖で魚をとる漁師たちでした。けれども、この日すでに漁は終わっており後始末のために網を洗っていたのです。夜通し苦労して漁をしてみたけれど、魚は一匹もとれなかったといいます。疲れた身体で、今日の作業はもうすぐ終わりにし、家に帰って休もうとしていたわけです。

それなのに、イエスはこの漁師たちにこう言うのです。「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と。イエスは当然のことながら漁師ではありません。魚をとることについて何か詳しい知識があるわけではあないのです。あるいは、何かの科学的根拠があって絶対にこうすれば魚がとれるはずだとわかっているわけでもなさそうです。疲れて作業を早く終了したい漁師たちにとってはイエスの命令は理不尽です。そんなことはやっても駄目だ、無駄だと思うようなことです。

だから、漁師の一人シモンはイエスの命令に対してこう言います。「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう。」やったって駄目だ、無駄だとわかっている。でも、他ならぬイエス様あなたの命令だから、やってみるだけはやってみますということです。

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結果は聖書が伝える通りです。網がやぶれそうになる程おびただしい魚がとれたということになっています。が、この物語が伝えるのは、イエスの力はとてもすごいです、不可能が可能になりましたということではないと、イエス様の力は素晴らしいということではないとわたしは思います。

というのは、こういうことです。 わたしたち自身も、このときの漁師たちと同じような経験をしばしばするのだということです。疲れていたり、苦しかったりする中で、もう休ませて欲しいと考えることがあるのがわたしたちです。できれば楽な方向へ、面倒くさくない方向へ行きたいと考えるのがわたしたちです。それなのに、そんなわたしたちに、時として理不尽にも思えるような命令が下されることがあるのだと思うのです。

そんなことは駄目だ、無駄だ、嫌だと考えるようなことを強いられることもあるのがわたしたちの日常です。そして、何度も何度もそういうことが繰り返されるのがわたしたちの日々なのです。

何かを強いられることは辛いことです。命令されるのは嫌なことです。できれば、避けたいことです。にもかかわらず、神はわたしたちに対して、しばしばもう一歩先に行くことを命令することがあるのだと思います。わたしたちが、あきらめずにやることができるかどうか、常に問われているのだと思います。