宗教主任 石垣 雅子

聖書の言葉

イエスが手を差し伸べてその人に触れ、
「よろしい。清くなれ」と言われると、
たちまち重い皮膚病は去った。

日本聖書協会『新共同訳 新約聖書』 ルカによる福音書5章13節

i

わたしたちは誰でも不自由な状態におかれることを嫌います。今ここにいる皆さんであれば、スカートの丈であるとか、髪の色だとか化粧だとかを自由にはできないことになっています。校則というもので決められているからです。そういう意味においては不自由です。でも、だからといって制服をなしにして私服登校をさせことにしたらどうなるのでしょう。多分、制服の方がラクで良いというはずです。皆さんにとって制服はある意味で不自由なんだけれども、ないよりはある方が良いというようなことなのでしょう。

生きることとは、不自由さの連続なのかもしれません。何でもかんでも全てが自由な人はいないでしょう。人生の選択でも、自由に選べる状態な人はほんの一握りの人々だろうと思います。学校を出て就職したいと願っても、就職先自体が少ないのです。実際問題として希望の職種を選ぶどころの話ではありません。大人もまた、リストラだの倒産だの給料や年金が減るだので自分の生活を保たせるのに必死です。家族を養わなければならない人たちは本当に大変だろうと思います。子どもを育てるためにも多額のお金が必要です。世の中の多くの親たちもすごく苦労しているんだろうと思います。不自由さの中に生きているのだろうと想像します。わたしたちはみんなその人なりの不自由さを背負いながら日々生活しているのでしょう。

ii

不自由さを抱えた一人の人がイエスと出会う。これが今日の物語のテーマです。イエスがある町にいたとき、一人の重い皮膚病の人がイエスのところにやって来たのです。その人はイエスを見てひれ伏し「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と語りかけました。イエスが手を触れると病気がいやされたといいます。

この福音書の著者はルカという人ですが、彼は医者であったと言われています。医者というのは健康でない人たちのために働く人です。もっと言えば、当時の社会の中で可能性を奪われ、自由がない状態の中で生きていた人々を相手にしていた人のことです。医療技術はそんなには進んでいませんから、治療できる範囲も限られていたでしょうし、治せない病気もあっただろうと想像されます。でも、健康ではない人が健康を回復したときの喜びを知っていた人が医者ルカではなかったかと思うのです。うち捨てられ、孤独に生きざるを得ない重い皮膚病の人をいやしたイエス。その行為は未来を奪われていた人への可能性の回復です。病気が治ることとは、日々抱えていたどうしようもない不自由さからの解放でもあったのだと思われます。イエスのいやし物語とは病気が治って良かった良かったというものではないと思います。結果だけにとどまってはいないのです。

わたしたちに引き寄せてみるとどうでしょうか。わたしたちもある意味不自由な世界で、それぞれの限界を感じながら生きていかなければなりません。さらに、何でも自由になる世界はないでしょうし、自由と勝手気ままは全く違います。イエスはわたしたちの不自由さを軽減はしてくれません。わたしたちの人生の課題を代わりに背負ってはくれません。やはり人生は自分自身で切り拓いていくしかないものです。

けれども、その不自由さのある生活の中に喜びを見出して生きていくことはできるのです。そしてまた、他者をしばる不自由さに心を痛め、自分のできる力を尽くそうとして生きていくこともできるのです。それぞれが不自由な中にあったとしてもです。自分に優しくするように他者に配慮と思いやりを持って生きることができたなら、イエスの目指す方向性と一致するように思います。そのような方向性を目指して生きていきたいと願います。