宗教主任 石垣 雅子

聖書の言葉

そこでイエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」

新約聖書 ルカによる福音書10章37節

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将来なりたいものは何ですかと聞かれたら、皆さんはどう答えるでしょうか。この質問は学校という場所において何度も繰り返されたものだろうと思います。「これこれの仕事につきたい」とか「大学に入って何々を勉強したい」とか「専門学校に進んで資格をとりたい」とか答えてきたのではないでしょうか。あるいは、「まだ具体的には決まっていません」という人もいるかもしれません。学校という場所、あるいは大人という生き物は皆さんに目標や目的を持って日々生活して欲しいと考えているわけです。だから、それぞれの進路というものを皆さん自身で考えたり思い描いたりして、そのために行動してもらおうとするわけです。皆さんに「どんな人になりたいのか」という理想を思い描きながら生活して欲しいと願っているわけです。

でも、これを考えるのは本当は難しいことです。やりたいものの方向は時として変わります。なりたかったけれど自分にはむいていないというようなことです。「なりたい自分」と「なれる自分」が同じではないことに気づかされることもあります。テレビタレントになりたいと思ってもみんながなれるわけではないというようなことです。才能や環境や運がみんなに十分に与えられているわけではないことに悔しい思いをすることもあります。プロ野球選手になりたかったのに自分よりうまい人はいくらでもいたというようなことです。理想と現実には必ずギャップがあります。自分の理想を思い描き、理想に近づくように生きろというのは過酷なことなのかもしれません。

そして、今の時代もまた過酷です。アメリカのサブプライムローン問題から生じたと言われる不況が世界を覆っています。特にこの国においては「100年の一度の不況」だと言います。就職したい人に職が与えられない。派遣社員という立場の弱い人々が続々と仕事を辞めさせられる。リストラや企業の倒産も起こっています。皆さんの中にもつらい思いをした人や今もつらい思いをしている人がいるだろうと思います。政治家や大臣と呼ばれる人々も言ってることややっていることが本当にこの国のためになっているのかどうか疑問なところがたくさんあります。責任を果たしていないのではないかと思うこともあります。

そんな中で、みんながあきらめモードの中に陥ってしまっているような気がします。皆さんもそのような雰囲気を感じないでしょうか。「どうせ何をやったって駄目なんだって」という大人たちを感じないでしょうか。そして、「戦争が起こればこの不況は改善する」と極端なことを言っている人までいるのです。冗談じゃないと思います。一体どうすれば打開できるのでしょうか。こうすれば劇的に変わるとか良くなるということはないのかもしれません。でも、だからといってこのまま世の中が悪化していくのは嫌だとわたしは思います。何故なら、わたしたち大人には皆さんや皆さんの次の世代にできる限り生きやすい、良い、美しい世の中を伝えていく責任があると考えるからです。

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そのようなことを考えながら、今日は一つの聖書箇所を読んでみたいと思うのです。「善いサマリア人」と呼ばれる物語です。イエスのところに律法の専門家(律法学者)がやって来て「何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と尋ねるのです。律法学者とはイエス当時のユダヤにおいてはエリートでした。ユダヤ教の指導者的立場にあって、人々を教え導く役目を負っていた人のことです。今の学校の先生なんて比べものにならないほど尊敬されていました。そんな偉い先生がイエスに対して難しい議論をはじめかけたら、イエスはその話をさえぎるように子どもでもわかるやさしい話をした。それが「善いサマリア人」と呼ばれている話なわけです。

律法学者は知識があります。当然難しいことを知っていました。旧約聖書のプロですから《心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。また、隣人を自分のように愛しなさい(27節)。》という言葉をすらすらと言えたわけです。ちなみに、この言葉は旧約聖書の申命記とレビ記の中にある言葉です。しかし、イエスはそのような難しい言葉を知っていることよりも、本当に求められているのはそのことを生活の中で実行することなのだと語っているのです。そのために「善いサマリア人」の話をしたわけです。

エリコまで行く途中で強盗に襲われた旅人がいる。《その人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った(30節)。》と書いてあります。死にそうなほど傷ついて、苦しんで、道に転がっていたわけです。けれども、たまたま通りがかった二人の人は倒れている旅人を見ても知らんぷりをして道の向こう側を通って行ったのです。《その人を見ると》とわざわざ書いてありますから、祭司もレビ人も、倒れて苦しんでいることは見えていたのです。でも、助けなかったのです。通り過ぎたのです。「パッと見、自分の知り合いじゃないから関係ない」と思ったのかもしれません。「助けるのは手間がかかる。めんどくさい」と思ったのかもしれません。「今忙しい。急いで行かなくちゃ」と思ったのかもしれません。ともかく自分の都合の方が優先したのです。

見るということはただ視覚に入ってくるということではないことに気づかされます。わたしたちも日々色々なことを見ています。でも、大事なことが見えていないことがたくさんあるのではないかと考えさせられます。見えているつもり、見ているつもりになっていて、その実色々なことを見逃しているのではないかと反省させられます。「関係ない」とか「めんどくさい」「忙しい」とか思うと、見えてこない大事なことがたくさんあるのではないだろうかと思わせられます。

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しかし、この話はここでは終わりません。ここからが最も美しく感動的なところだと思います。三人目の人が通りがかるのです。サマリア人です。《ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した(34節)。》その姿が思い描けるようなわかりやすい表現です。このサマリア人は倒れている人の痛みや苦しみを想像し思いやることができた。そして、自分の都合を優先させるのではなく、倒れているその人の方を優先させたのだと思います。「関係ない」「めんどくさい」「忙しい」と思う気持ちではなく、自分が今できる精一杯のことをしようとしたのです。

祭司、レビ人、サマリア人。この三人の中で倒れている旅人の隣人となったのかとイエスは尋ねます。答えは律法の専門家でなく子どもでもわかります。さらに、イエスは律法学者に「行って、あなたも同じようにしなさい」と語ります。その律法学者がその後どうしたのかは書いてありません。結びのない話です。が、この話を通して、イエスはこの律法学者に言いたかったのだと思います。あなたは人々を教え導く立派な立場の人、人の上に立つ存在だけれども、本当に聖書の言葉を実践していますか、と。大事なことは困っている人を見かけたら放ってはおけないと思わず助けるような人になることなんだ、と。それは身分や社会的地位なんてこととは関係がないことなんだ、と。難しいことを色々知っていることよりも、今助けを求めている人を見かけたら、その人に対して手を差し伸べることができるかどうかなんだ、と。

わたし自身の人生において、これまで何度かサマリア人が現れたことを思い起こします。もうどうしようもないくらいに疲れ果てていたり、力を失っていたり、希望をなくしかけていたり、傷ついていたりしたときに、そんなわたしを助け起こしてくれた人々がいたことを思うのです。何げない一言であったり、痛く厳しい言葉だったりしました。でも、わたしのこれまでの人生には倒れている瀕死の旅人であるわたしに手を差し伸べ、助け起こして、薬をつけたり包帯を巻いたりしてくれた人々がいたのです。傷ついている、苦しんでいるわたしに対して「もう大丈夫だよ」と励ましてくれた人々がいたのです。そのような人々がいたからこそわたしは今ここに存在しているのです。

皆さんも同じだろうと思います。自分一人では乗り越えられないような苦しい場面で、共に頑張る仲間がいたから切り抜けられたことがあったはずです。誰かの何げない言葉や行動に励まされて立ち上がる勇気を得たことがあったはずです。目標や夢に近づくために協力してくれた大人たちがいたはずです。弱さや苦しみや痛みにそっと寄りそって、思いやりや配慮に満ちた愛情というものを与えてくれた人がいたはずです。一人では生きられないわたしたちに、神さまは隣人というかけがえのない存在を贈ってくれます。これまでそうであったように、これからもです。

イエスはわたしたちに語ります。「行って、あなたも同じようにしなさい」と。わたしたちもまた隣人たちのサマリア人になれるのだと、なりなさいと命じるのです。それはわたしたちがどのような職業についているとか、お金をどれくらい儲けたかとか、社会的地位が上か下かとかそのようなことには関わりないのです。あるいは、社会がどのような状況であったとしてもできることなのです。「どうせ何をやったって無駄だ」と思いたくなるような場面であったとしても、「関係ない」「めんどくさい」「忙しい」というような場面であったとしても、あきらめて何もしない人になってはいけないのです。

おそらく、わたしたちは世界を大きく変える力は持ち得ないだろうと思います。でも、隣人たちとの関係においてまわりの人々を変える力はあります。わたしたちがサマリア人となることで、まわりの人々を善く変える力を持ち得るのです。人は人を善くすることができる。わたしはたとえどのような現実の中にあってもその力を信じます。何故なら、イエス自身がわたしたちを信じて「行って、あなたも同じようにしなさい」と、物語の中のサマリア人のようにできるのだと語ってくれているからです。