宗教主任 石垣 雅子

聖書の言葉

ペトロは言った。
「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。
ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」

新約聖書 使徒言行録3章6節

i

皆さんは他人のことがうらやましいとかねたましいとか思うことがありますか。わたしは時として、自分以外の人がうらやましく思えたりねたましく思えたりすることがあります。というのは、自分にはないものを他人が持っているように思えるからです。自分にはないのにあの人は持っている。それがうらやましいのです。ねたましいのです。多くの場合、それはモノのことではありません。目には見えないもののことです。わたしが欲しいのは他人が持っている性格や個性、能力や長所と呼ばれているものです。きらりと光る何かが他人にはある。それなのに、自分には何もない。うらやましいのです。ねたましいのです。悔しいのです。だから、「どうせ自分なんて」とつぶやきたくなってしまうのです。

残念なことに人間は自分の姿がよく見えていないという弱点を持っています。鏡を見ればよく見えると思うかもしれません。でも、鏡に映っている自分は左右が逆です。自分のことを本当に見ることはできないのです。そして、自分の良いところはどこなのか悪いところはどこなのか自分で認識することは難しいことなのだと思います。もしそれができたなら、この世の中はもっと素晴らしい世の中になるのかもしれません。でも、悲しいことに自分の姿がよく見えていないのです。だから、なおさら、他人のことがうらやましく思えたりねたましく思えたりするのでしょう。「どうせ自分なんて」とつぶやきたくなるのでしょう。あるいは、誰かと自分を比べて、自分にはあれがないこれがないと不平不満を口にしたりしてしまうのでしょう。

ii

今日の聖書はそのようなわたしたちに語りかけられているものだと思います。これは、エルサレム神殿の門のところで施しを請うていた足の不自由な男がペトロとヨハネと出会うという物語です。ペトロとヨハネはこの男に「わたしたちを見なさい」と語りかけます。こっちを見ると言われた以上は何かくれるのだろうと思ったでしょう。男は期待をこめてペトロとヨハネを見ただろうと思います。でも、「わたしには金や銀はない」とペトロは言うのです。そして、「わたしにあるものをあげよう」と続けます。ペトロが持っていたものとは「イエス・キリストの名前」だったと聖書は記しています。「イエス・キリストの名前」とは何でしょうか。これは、ペトロにとって自分の持っている最高の持ち物、宝物だったのかもしれません。この宝物とはイエスが自分とともにいてくれ、支えてくれ、見守ってくれていることと言い直してもよいのかもしれません。それを差し出したとき、男の足はいやされたと聖書は語っています。

振り返ってみると、わたしも含めて、わたしたちは「あれがない」「これがない」と口にしてしまいます。「どうせ自分なんて」とつぶやいてしまいます。他人のことをうらやましいとかねたましいとか思って卑屈になってしまうことがあります。けれども、よく考えてみれば、たとえ何一つ持っていないように思えるわたしたちであったとしても、目には見えないたくさんのものを持っているのだと思うのです。神さまから与えられた宝物があるのだと思うのです。自分では気づいていないだけなのです。かけがえない宝物をわたしたちはそれぞれ神さまから与えられているのです。まず、そのことに気づきたいと願います。うらやましい、ねたましいと思う前に、それぞれが与えられている宝物を大事にすることを学びたいと思います。