宗教主任 石垣 雅子

聖書の言葉

闇の中を歩み民は、大いなる光を見
死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。

旧約聖書  イザヤ書 9章1節

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先週木曜日、22日のことです。わたしは青森空港から飛行機に乗るため空港に向かいました。ところが、本当にひどい天気でした。横殴りの吹雪です。必死になって車を運転し、空港に着きました。東京行きの一つ前の便には「欠航」という表示がありました。わたしが乗るはずの飛行機もなかなか空港に着陸できないでいます。「これはもしかするとヤバイかもなぁ」と思いました。わたしと同じように、みんな不安げな顔をして待っていました。携帯電話を手に「飛行機が降りられないでいます」とか「着くのが遅れると思います」と連絡している人もたくさんいました。結局、飛行機は1時間近く遅れて着陸し、1時間以上遅れて離陸しました。その間、みんな待ってました。

待つということは実は相当大変なことです。不安です。苦痛でもあります。いらいらします。予定がだいぶくるってしまうこともあるでしょう。家へ帰るのが遅くなったりもするでしょう。でも、みんな待ってます。飛行機は必ず着陸し、やがて離陸し、自分は目的地に行けるのだと思うから待っています。もうあきらめたとか、JRにしようとかそういうことにならないのは何故なのでしょう。何がみんなを待たせるのでしょうか。

わたしはそこに希望があるからだと思うのです。希望があるからこそ待っていられるのではないでしょうか。これは何事でもそうです。入学試験や就職試験の結果を待っていられるのは、良い知らせが届くという希望があるからです。幼い子どもが服を着るのをじっと待っている親は、子どもが少しずつ成長していくという希望を持っています。待ち合わせの時間に少し遅れたとしても待っていようと思えるのはあの人は必ず来るという希望があるからです。希望がないとしたら、わたしたちは何一つ待つことができなくなってしまうことでしょう。希望がないがために自分の未来に絶望してしまう人すらあります。

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今日の聖書は待っている人の言葉です。旧約聖書の民族イスラエルの人々もまた、待っていました。何を待っていたのか。自分たちの暗闇を光へと変えてくれる存在をです。イスラエルの人々は当時とても辛く厳しい日々を送っていました。しかし、彼/彼女らには希望があったのです。自分たちをこの辛く厳しい現実から救い出し解放してくれる存在がいつかやって来るのだという希望です。その存在こそがイエス・キリストです。彼はイスラエルの人々にとって、待ちに待った存在でした。と同時に、この世界にとっての来るべき救い主、そして暗闇を光へと変えてくれる希望であったのです。

わたしたちはまもなくアドベントを迎えようとしています。中央廊下にはリースが飾られ、教室のドアにはカードが張られます。礼拝堂にはステンドグラスと星、職員玄関前にはネイティビティが飾られます。この時期はただ何となくクリスマスを待っている時期ではありません。わたしたちにとっての希望、イエス・キリストの誕生を心から待ち望む季節なのです。今日わたしたちの生きるこの世界はとても暗い一面を持っています。わたしたちもその中にあって、自分の将来に対して希望が持てなかったり、夢を失いかけてしまっていることがあるのかもしれません。何かを待つことが苦痛で、今さえ良ければ後はどうでもかまわないという思いになってしまうこともあるのかもしれません。でも、そんなときだからこそ、イエスがこの世界にやって来るクリスマスを心から待ちたいと思います。彼はわたしたちの本当の希望です。たとえ待つことが大変だとしても、わたしたちは彼がこの世界にやって来る日を心から待っていたいと願います。