宗教主任 石垣 雅子

聖書の言葉

あなたのまことにわたしを導いてください。
教えてください。
あなたはわたしを救ってくださる神。
絶えることなくあなたに望みをおいています。

旧約聖書  詩編 25編5節

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わたしたちは「そんなの当然だ」とか「それが当たり前だ」というような言葉をつかうことがあります。ほとんどの場合、他人に対してそういう言葉をつかうわけです。では、一体「当然」とか「当たり前」という基準は何なのでしょうか。多分、そう言っている本人です。自分が今までそう考えてきたこと、そうしてきたことを「当然」や「当たり前」と言ってしまっているのだと思います。

以前わたしはある生徒から「先生、そんな変わったことする必要ないって。普通でいいよ」と言われたことがあります。そのときわたしは「あなたたちの言っている普通って何よ」と尋ねました。そのときのことを、後になってその生徒は「わたしは先生に普通でいいよって言ったけれど、逆に『では、普通ってどういうこと?』と聞かれて答えられませんでした」と言っていました。わたしは「そんなの当然だ」とか「それが当たり前だ」とさも分かったように言う人に、本当にそうなのかもう一度考えてみた方が良いぞと思うのです。あまのじゃくなのかもしれません。

少し変なたとえです。トマトやスイカに塩をかけて食べる人にとってはそれが普通で、砂糖をかけて食べる人は普通じゃないということになります。ミカンの皮をおしりの方からむく人にとっては頭からむこうとする人は変な人になります。でも、そんなことはどっちでも良いことです。おいしく食べられればどっちであろうと何の問題もありません。

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問題は自分を基準にして、そんなことおかしいとか間違っているとか他人を判断していくことなんだと思います。ささいなことから大きなことまで、わたしたちは色々なことを「そんなの当然だ」とか「それが当たり前だ」と言って自分の物差しでもって他人を計っているのかもしれません。もちろんその物差しはみんなにあてはまることもあるでしょう。誰が見ても正しい場合もあります。しかし、そうではないこともあるのではないでしょうか。

ここ10年くらい、わたしは気にしていることがあります。「父性の復権」だとか「母親業は大事だ」とか言っている人の声が高くなっているように思うのです。父親という存在は厳しく子どもにしつけをすべきであり、母親は家庭の中でしっかり愛をもって優しく子どもに接するべきだということを語る人たちがいます。でも、父親や母親の役割って本当にそういうことなんだろうかと考えます。そうすることが子どもの成長を支えていくことなんだろうか、と。「父親ってのは強くないといけないんですよ」だの「母親は家庭にいて子どもを包んでやらなければ」とか、さもそれが当然のように語る人たちに、わたしは疑問を感じます。そんなふうに役割分担を決めて、「ああでなければならぬ」「こうでなければならぬ」と規定するべきことなんだろうかと思うのです。

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大切なのはそういうことではないはずです。他人を自分の持っている物差しで測って、こうあるべきだとか決めてしまうことではないと思います。加えて、当然のことや当たり前のことができていないから子どもがちゃんと育っていないんだと語ったとしても、その人が子育てを代わってやってくれるわけではありません。イマドキの若者がたるんでる原因はこれこれしかじかだと言って悪者さがしをしてみても仕方がないんじゃないかと思うのです。

もう一度、自分の持っている物差しを確認してみる必要があるように思います。「普通」って何なのか。「当たり前」って何が「当たり前」なのか。何が正しくて、何が間違っているのか。何をどうするべきなのか。何をしてはいけないのか。

詩編の詩人はこう言っています。「あなたのまことにわたしを導いてください」と。ここであなたと言われているのは神さまのことです。まわりに煩わされたり、まわりを自分の基準にしたりするのではない。神さまに尋ね求めるような仕方でもって、謙虚に生きていかなければならないと思うのです。