宗教主任 石垣 雅子

聖書の言葉

主の御使いはもう一度戻って来てエリヤに触れ、
「起きて食べよ。この旅は長くあなたには耐え難いからだ」と言った。

旧約聖書 列王記上 19章7節

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先日ある卒業生と会って話をしておりました。何の話のついでだったでしょうか。「わたしはやっぱりキリスト教にはなじめない」と言うのです。「聖書の中でイエスが言っていることがわからない。右の頬を殴られて左の頬なんか出せない」と言っておりました。わたしはそのとき、その卒業生にこう語ったのです。わたしだってキリスト教や聖書についてきちんと理解をしているか・わかっているかというと、理解できない部分やわからない部分がたくさんある。でも、自分が牧師として聖書の教師として曲がりなりにも続けてこれたのは理解できないしわからない部分がたくさんあるからだ。理解できないから、理解したいと思う。わからないから、わかりたいと思う。だから、わたしはキリスト教にこだわって生きているのだと思う。そんなふうに語ったわけです。

皆さん方も、牧師だ教師だというと、何でもわかっているように見えるかもしれません。あるいは、キリスト者だというと、何か清らかで穏和で寛容で、俗世間とは距離をおいて生きている人のように思えるかもしれません。そういうイメージがどこからか定着しています。でも、決してそんなことはないのです。わたしたち人間に色々いるように、キリスト者でも牧師でも本当に様々な人がいます。確かに、わたしも清らかで穏和で寛容に生きられたら良いだろうと考えることはあります。でも、実際のわたしがそうでないことは皆さんがご存じの通りです。

では、一体キリスト教を信じているとはどういうことなのでしょうか。わたしには、もしかするとこういうことなのかもしれないと考えることがあります。それは、モノの見方・考え方がちょっと違っているということです。キリスト教的な考え方では、この世の中を平面では見ないということです。人間の世界だけでは完結しないということです。ちょっと難しい言葉で言うと、二次元で見るのではなく三次元で見るということになるでしょうか。これがキリスト者の特徴なのだと思っているのです。この世界において生きているわたしたち人間を見つめておられる存在がいる。そう信じている人々がキリスト者なのだとわたしは思っております。わたしたちが生きているこの世の中を見守り、わたしたち人間を導き支える存在がおり、その存在を信じているということがキリスト教の一番の特徴だろうと考えているのです。そして、その存在のことをキリスト教では神と呼びます。

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さて、今日皆さんと一緒に読んでみたい聖書の箇所は、エリヤという預言者が登場する場面です。預言者とは未来を予告する人のことではありません。その字の通り、神の言葉を預かって語った人々のことです。神が人間に語り聞かせたいと願った言葉を預かって語ったわけです。しかし、それ故に時の権力者からは疎まれ、捕らえられたり殺されたりすることもあったようです。このエリヤという預言者もまた、時の権力者アハブとイゼベルから殺されようとしていました。彼は追っ手から逃れ、一人になって荒れ野へと赴くのです。最後まで自分に従っていた従者さえも去らせ、ひとりぼっちでさびしい荒れ野の中へ入って行くのです。権力者の手にかかって殺されるよりは一人で静かに死のうと考えたのでしょう。

エリヤは自分の死に場所を荒れ野の中、一本のえにしだの木の下に定めました。そして、神にむかって願いました。「主よ、もう十分です。わたしの命を取って下さい」と。「自分の命を取って下さい」とは、もう自分は駄目だと、これ以上は生きられないということです。そう彼は神にむかって語りかけるのです。けれども、そのうちに彼は横になって眠ってしまったというのです。傷つき、疲れ果て、眠るエリヤ。彼は孤独の中にいます。絶望の中にいます。

そんなエリヤに、神は眠りの中御使いを通して語りかけます。御使いが彼にそっと触れたのです。食べ物と飲み水を与えて、「起きて食べよ」と言うのです。死のうとまで思い詰めていたエリヤが食べ物や飲み水を持っていたとは思えません。そういうときに、まず食べ物と飲み水を与えるというのは理にかなっています。エリヤは神が与えたパン菓子と水を飲み、再び横になりました。わたしはこの場面がとても好きです。神は、わたしたち人間を叱りとばして「こんなことやってたら駄目じゃないか」とかそんなことは言わないのです。傷ついている人、疲れている人、弱っている人にそっと寄り添うように神は現れるのです。傷ついているとき、疲れているとき、弱っているとき、神は人間に強さを求めないのです。逆に言えば、わたしたちが強いときには、神はわたしたちの目の前には現れないのかもしれません。わたしたち人間が自分の弱さを知るとき、その弱さに神は寄り添おうとするのです。

しかし、弱いままでそれで仕方ないとはして下さらないのです。エリヤのもとに御使いは再び戻ってきて、「起きて食べよ」と命じます。そして、御使いは「この旅は長く、あなたには耐え難いからだ」と言うのです。御使いは「この旅は長い。でも、あなたには耐えられるだろう」とは言わないのです。「この旅は長く、あなたには耐え難い」ときっぱり言うのです。わたしは、この言葉は真実だと思います。わたしたちがこの人生で経験することは、毎日毎日が楽しくて苦しいことがない日々ではありません。耐え難いようなそんな旅路であり、辛いことや苦しいことが幾度となくやってくるのがわたしたちの人生なのだと思います。それだからこそ神はわたしたちの側にやって来る。寄り添うようにそっとやって来るのです。

荒れ野のえにしだの木の下、たった一人で横になっていたエリヤ。神はそのようなエリヤをひとりぼっちの世界から、ひとりぼっちではない世界へと返そうとします。それがどんなに耐え難いものであったとしても、神はエリヤが孤独の中にいることを望まないのです。「ひとりで何やっているんだ。自分の生きる場所へ戻りなさい」とでも言うかのごとく、食べ物と水を与え、力づけ励ますのです。やがて荒れ野を後にしたエリヤは40日40夜歩き続け神の山ホレブへと導かれます。そして。洞穴の中で神の声を聞きます。「ここで何をしているのか」と。エリヤは答えます。自分は情熱を傾けて神に仕えてきた。が、そのために命をねらわれる者となったのだ、と。今の自分の状況を説明するのです。神はエリヤに「そこを出て、山の中で主の前に立ちなさい」と命じます。エリヤは山を裂き岩をも砕く非常に激しい風の中にあっても神の声を聞くことはありませんでした。風の後に起こった地震の中でも神の声を聞くことはありませんでした。地震の後に起こった火事の中でも神の声を聞くことはありませんでした。全てが静まった後に、静かにささやく声が神の声が聞こえたというのです。

III

わたしは、この弘前に来て今年で10年になります。そして、キリスト教に出会い20年余りが経ちます。わたしが何故キリスト教に出会い、それを学ぶようになり、そしてそれを自分の生業・職業とするようになったのか本当のことは未だに自分でもわかりません。が、何か劇的な出来事があったからそうなったわけではないのです。わたしの経験的に言うと、神とはわたしたち人間に対して「わたしが神だ」と華々しく登場してくる存在ではないと思っています。何気ない日常の中、折に触れ、自分にそっと寄り添うようにそこにいるのだと考えています。もしかすると、わたしたちが耐え難いような人生を歩んでいて、時として弱っていることがあるからこそ寄り添って下さるのかもしれないと思います。傷ついていたり、疲れていたり、悩んでいたりするからこそ神の声が届くのかもしれないと思います。
その声は静かにささやく声です。だから、聞こうとしないと聞くことはできません。耳を澄まさなければ聞こえてはきません。聞こうとする用意がないと聞くことは難しいのです。自分には関係ないと思っていれば、一生涯聞くことはないでしょう。でも、わたしは思います。その声の主はわたしたちの人生という旅路がたとえどのように耐え難いものであったとしても、あきらめてしまいたくなるようなものであったとしても、わたしたちを見捨てることはなさらないのだ、と。さらに、わたしたち人間同士の関係をも取り結んで下さろうとしているのだと思います。ひとりぼっちではなく、愛ある関係の中で生きることを願い、そこへと導いて下さっているのだと思います。
わたしは、今その存在を信じることができる。わたし自身のこれまでのことを振り返るとき、もう駄目だと思うことは何度かありました。特にこの1年半の間、自分の人生を投げ出してしまいたくなることを押しとどめてきました。「この人生はもう自分には耐え難い」とする思いを必死でくい止めてきました。何故押しとどめられたのか。何故くい止められたのか。そして、今ここまで回復することができたのか。それは、わたしがわたし一人ではなかったからだと思っています。わたしのことをそっと見守って下さる神がいた。そして、皆さん方も含めてわたしのことをそっと応援してくれる人々がいた。このことがわたしを支え導いたのだと考えています。
神の意志がどのようなものであるのか本当のことはわたしにもわかりません。でも、想像することはできます。神が何を考えているのか本当に理解することはわたしにはできません。でも、推測しようと思います。わたしは思います。神はわたしたちの人生に強制的に介入してきて「こうだ」「ああだ」と言ったりはしないのです。交通整理をして、うまく世の中を渡っていけるようにはしてもくれないのです。それぞれの人生の困難を取り除いて、平坦な道を歩かせてくれることもないのでしょう。あるいは、この世の悪を裁いて悪者がみんな滅ぼされることもないと思います。ただひたすらにわたしたちの人生にそっと寄り添っているのだと思います。その人生がどんなに失敗だらけで後悔に満ちたものであったとしてもです。困難で苦しいものであったとしてもです。つまずき、転び、涙を流すことが多かったとしてもです。
今この学校を旅立ち新しい場所へ進もうとする皆さんに、わたしは今日「この旅は長く、あなたには耐え難いからだ」という厳しい神の言葉を贈ります。けれども、この言葉は皆さんの人生がどんなに耐え難く、厳しい旅路であったとしても、神は皆さんの人生を見守っているという約束の言葉でもあります。わたしたちの人生にそっと寄り添うようにいる神がいる。煮詰まってしまうことがあったとしても、絶望するようなことがあったとしても、もう駄目だと思うようなことがあったとしても、神はわたしたち人間のことをあきらめてしまうことはありません。預言者エリヤにそっと語りかけられた言葉は、今日またわたしたちにも語りかけられていることをわたしは信じます。そして、わたしたちの人生の限りこれからもずっと語りかけられ続けられるだろうことを信じます。