宗教主任 安達 正希

聖書の言葉

だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。
死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、
わたしたちのために執り成してくださるのです。

新約聖書 ローマの信徒への手紙8章34節

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10月の末、東北・北海道地方にあるキリスト教主義学校の集まりがあり、北海道・札幌へ行って来ました。行きは飛行機だったのですが、利用した新千歳空港は以前北海道に住んでいた時、何度も利用した空港でしたので、とても懐かしく感じました。

新千歳空港のある町、千歳についてですが、「ちとせ」は「千歳」(せんさい)と書きます。そして千歳の近くには、「支笏湖」(しこつこ)という、とても綺麗な湖があります。「支笏」(しこつ)という言葉は、もともとはアイヌの言葉のようで、シコツ地方には、大勢のアイヌ民族が住んでいたそうです。そこに、いわゆる和人がやって来ました。和人にとり、「シコツ」という響きは、「死」ですとか「骨」である、との理由から、隣町は長生きの象徴でもある「千トセ」(ちとせ。後に“千歳”なお、鶴が生息していたことに基づくようだ)と、約200年以上も前に呼ばれるようになったそうです。

私たちにとりまして、「死」は、通常、怖く感じるものなのだと思います。できることなら考えたくない、避けたい物事です。先ほどの「千歳」の町の由来は、私たちの誰もが考えることを示している例なのだと思います。

聖書は、私たちができることなら考えたくないそのような問題に、ダイレクトに触れます。例えば、旧約聖書・詩編には次のように記されています。「人は永遠に生きようか。墓穴を見ずにすむであろうか」と。人間は、形をとる存在である限り、聖書に即して言うならば、造られたもの、被造物である限り、その形を、いつかは必ず失います。

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さて、クリスマスを一ヶ月後に迎えようとしています。クリスマス、この言葉は、ラテン語の「クリスト」「マス」、日本語に訳すと「キリストへの礼拝」にまでさかのぼります。クリスマスをどのように過ごすか、それは自由です。しかし、「キリストとはどのような方か」、とのことを一度問うてみたいと思うのです。

本日の聖書には、「死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエス」と記され、キリストとはどのような方かが記されています。その記述には、私たちの感じる、クリスマスのロマンチックな雰囲気はどこにもありません。むしろ、びっくり、信じられないことが記されています。

しかし、考えてみますと、人間の誰もがいつかは迎えるべき物事を考えない、また、向き合うことなく避けようとする、そちらの方が、本当はびっくりすべきこと、信じられないことなのかもしれません。

クリスマス、あのベツレヘムの馬小屋で生まれたイエス・キリストは、やがて十字架の上で死ぬこととなります。不思議なことです。十字架で処刑された方の誕生日を祝う日がクリスマスとは。しかし、聖書の語るキリストは、本日の聖書で、強調して記されているように「復活のキリスト」です。つまり、私たち人間と同様死なれたが、しかし死で全てが終わるのではない、という希望のキリストです。そうであるからこそ、クリスマスは、まことに嬉しい日となるのです。

私たちは、どのような状況にあっても、希望を内に抱きつつ、歩んでいきたいと思います。