宗教主任 石垣 雅子

聖書の言葉

あなた達同様、わたしにも心があり、あなたたちに劣ってはいない。
だれにもそのくらいの力はある。
神に呼びかけて、答えていただいたこともある者が友人たちの物笑いの種になるのか。
神に従う無垢な人間が物笑いの種となるのか。
人の不幸を笑い、よろめく足を嘲ってよいと安穏に暮らす者は思い込んでいるのだ。
略奪者の天幕は栄え、神を怒らせる者、神さえ支配しようとする者は安泰だ。

旧約聖書 ヨブ記12章3~6節

i

「もし、本当に神さまがいるのなら、どうして自分をこんな目に遭わせたのか」という問いを受けたことがあります。そして、わたし自身もそのように考えてしまうことがあります。それに対する答えをわたしは今持っていません。「神さまの気持ちはわたしたち人間にはわからないのだ」という答え方もできるのでしょうけれど、そうは言いたくないような気がします。

わたしたちは神さまのことをえこひいきするような方ではないと、どこかで考えています。でも、その反面「こういうことになったのはどうしてなのか」と問いかけてしまうこともあるのです。例えば、親しい人の死に直面したとき、不条理な出来事に出会ったとき、事故や事件に巻き込まれたとき、病気や怪我をしてしまったとき、わたしたちは「どうして」と問いかけてしまうのです。他の誰かでも良かったのに、たまたまどうして自分だったんだろう、と。神さまはえこひいきをしているのではないだろうか、と。

しかし、この問いははるか昔から繰り返されてきた問いでもあります。ずっと昔から人間は苦しみの意味を問い続けてきたのです。ヨブ記というこの文書もこの問いかけを扱っているものの一つです。何故人は理由もなくこの世において苦しみ、悩まなくてはならないのか。しかも、何の理由もなしに悲惨なことがこの身にふりかかってくるのか。もしかしたら、最初からこの世は不条理にできていて、神なんていないんじゃないだろうか。このようなことについて答えを探そうとした物語がヨブ記です。

ii

ヨブという人物が主人公です。悪を避け、正しい人として、そして、たくさんの財産を得た人生の成功者として生きていました。そんな彼が突然全てのものを奪われていく。財産も、家族も奪われ、しかも彼自身足の裏から頭のてっぺんまでひどい皮膚病になってしまう。ヨブに起こった出来事は大変な不条理です。どうしてこんなことになったのか。当然のこととして理由を探し求めます。ヨブの友人たちは、「神は理由なしに人をこらしめたりするわけがない。人間は良いことをすれば良い報いがあり、悪いことをすればその報いは最後には自分に返ってくるのだ」という論理でもって説明しようとするわけです。この論理を難しい言葉で因果応報と言います。

しかし、それに対してヨブは、「自分には悪いところはないのだ。どうしてこうなったかわからないのだ」と言います。簡単に「自分が悪い」としてしまうのではなく、「何故」と問い続けようとするのです。不条理の理由をどこかに見つけて、それによって自分を無理矢理納得させようとはしていないのです。納得できないまま、それでも自分で考え続け、そして神に問いかけ続けようとしているのです。このヨブの姿にわたしは共感します。わたし自身もそうでありたいと思うのです。「どうして」を考え続けていたいと願っているのです。

さらに、自分を安全地帯において、他人に対してああだこうだと言いたくないとも思っています。不幸な出来事に出会っている人や、不条理な中で必死になっている人に勝手なことを言いたくないと思うのです。「わたしがこういうことに出会ったのはどうしてなのか」と考え続ける人々に対して、その答えを与えるのではなく、見守り続け、支え続けていたいと思っているのです。そして、そのようなわたしたち人間をどのようなときでも見守って下さる神のことをも思います。わたしは、神さまとは、わたしたちの良い状態のときだけ見守っていてくれ、悪いときには見放しているわけではないと信じています。わたしたちは答えの出しにくい難しい問いをときとして神から与えられます。そのようなときにあったとしても、それぞれが誠実にその問いに取り組んでいきたいと願うものです。