宗教主任 石垣 雅子

聖書の言葉

わたしたちは見えるものにではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。

新約聖書 コリントの信徒への手紙II 4章18節

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今朝の皆さんの気持ちを色にたとえると何色でしょうか?
心が安定していて気持ちよく朝を迎えられた人はバラ色なことでしょう。学校行きたくないなあと思ったけど、仕方なく来た人は灰色かもしれません。今日は「これをやるぞ」と決意している人は燃えるような赤かもしれません。淡々と日常を過ごそうという人は空色だったりするのでしょうか。恋愛に熱をあげている人はピンクかもしれません。緑色、青、茶色、真っ黒という人ももしかするといるのでしょうか。
本当はわたしたち人間の心を色にたとえるなんてことはできないのかもしれません。一日のうちでも、心・気持ちというものはコロコロと変化します。「ブルーな気分」という言葉もあるとおり、嫌なことや気の乗らない出来事に出会うとき、わたしたちは落ちこみます。朝はすごく嫌だったのに昼過ぎには元気になっているというようなこともあります。これを医学用語で「日内変動」というらしいです。イライラしたり、突然泣きたくなったり、「自分なんてもう!」というような気持ちに襲われたりすることもあるわけです。
では、一体わたしたちの心というのはどこにあるのでしょうか? 古代エジプトでは心は心臓にあると考えられていたそうです。だから、ミイラを作るとき心臓だけ別にしてミイラを作ったのだそうです。死後の世界に行ったときに心がないと困るからだそうです。あるいは、イスラエル民族は心はどこにあると考えたのか。はらわたにあると考えていたそうです。善きサマリア人のたとえ(ルカ10章25-37節)の中に「憐れに思って」とある言葉は「はらわたがちぎれるような思いがして」という意味です。心というのをはらわた(内蔵)にあると考えていたわけです。

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どこにあるにしても、わたしたちの心・気持ちというものは自分でも、そして他人からも見えません。自分自身で今日は不調だなと思ったとしても、あるいは他人を眺めていて「あの人今日は調子良さそうだな」と思ったとしても、その人の心や気持ちを見ることはできないのです。わたしはときどき、自分の心をとり出して、ゆっくり眺めて、悪いところを取り除いて良いところだけにしたい気持ちになることがあります。そうできたらどんなに楽だろうと考えることがあります。
でも、それは無理な話です。心や気持ちは自分の中からとり出すことはできないのです。目で見ることもできないのです。それだからこそ、わたしは思います。心や気持ちって見えないけれど、とっても大事なんだよな、と。わたしの愛読書『星の王子さま』の中でキツネは言います。「大切なものは目には見えないんだよ」と。わたしたち人間を、わたしとしてそれぞれに保たせてくれている心・気持ち。これはとても大切なものだと思います。大切だからこそ見えないのかもしれません。
今日の聖書はこう言っています。「わたしたちは見えるものにではなく、見えないものに目を注ぎます。」見えないものに目を注ぐなんていうことは本当はできないことです。見えないのに見るというのは矛盾しています。しかし、今日わたしはこの言葉をこのように受け取りたいと思っています。他人の心・気持ちなんて見ることはできない。自分の心・気持ちだって見ることはできない。でも、想像し思いやることはできるのだ、と。
思いをやるからこそ思いやりです。思いを渡すのです。どんな思いを渡すのか。たとえ、今日自分がどんな心の色をしていようとも、できるだけ優しい気持ちを渡したいと思うのです。花の日礼拝のこのとき、わたしたちは自分の隣人たちに優しい思いを渡せるようになりたいと願うものです。