宗教主任 石垣 雅子

聖書の言葉

あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。

新約聖書 マタイによる福音書5章13節

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1,わたしたち人間及び動物はこれがないと生きていけません。
2,日本で消費されている約80パーセントは工業用です。
3,昔から精神的な意味で、ものを清める役割があると考えられてきました。
4,食べ物が腐るのを防ぎます。
5,ナメクジにかけるとナメクジは溶けてしまいます。
6,取り過ぎると高血圧になると言われています。

さて、一体これは何でしょうか。おわかりですね。答えは塩です。実は、食べ物が腐るのを防ぐのとナメクジが溶けるのは同じ働きなのだそうです。浸透圧といって、塩を加えることによって内部の水分を外に出す作用のためなのだそうです。
ナメクジに塩をかけたことがあるかは別として、塩というのはわたしたちの生活でとても身近なものです。塩を全く取らなければやがては死んでしまいます。あるいは、サラリーマンと言う言葉も塩に由来しています。サラリーとはラテン語の「サル」からできたのですが、「サル」とは塩を意味し、ローマ時代に給料を塩で払ったことによるものです。
このことからもわかるように昔から人間は塩と非常に深い関係を持って生活してきました。わたしたちが生きていくその中に塩が必ずあったのです。醤油と味噌、塩のない生活を想像してみて下さい。味のないポテトチップス、味のないポップコーンを食べたいと思いますか?少なくともわたしはそういう生活はしたくないと思います。

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しかし、塩はわたしたちの口に入ったそのときに味わいをもたらしてくれるものです。ここが大事なところです。あの白い粉状の物体をいくら眺めていても味はわかりません。見ているだけでは役に立たないのです。やはり塩は食べ物の味付けとなるとき、そしてわたしたちの身体の中に取り入れられるときにはじめて意味を持ちます。しょっぱいということがわかるのは口に入れるからです。
今日の聖書は「あなたがたは地の塩である」と言っています。これはイエスの言葉です。この言葉はわたしたちひとりひとりに対して語りかけられているものです。このわたしが地の塩なんだというのです。わたしは思います。塩は塩自体のために存在するのではありません。ポテトチップスに振りかけられて、料理の中の味付けとなって初めて生きてくるものです。同じように、わたしたちが生活の中で、様々な人とかかわり、色々な事柄と出会っていく。その中で自分を本当に大事にし生きていくとき、わたしたちは地の塩となれるのではないでしょうか。自分一人のためだけに生きているときには塩の役割を果たせないのです。「自分が、自分が」と、こりかたまっているとき、わたしたちは他者を生かすことはできないのだと思うのです。それどころか、おいしくない役立たずの塩になってしまうのかもしれません。
自分自身を生かし、同時に誰か他者を生かすことができたとき、わたしたちは初めて地の塩となれるのです。この場合、他者とは自分の友人や恋人やクラスメートかもしれません。あるいは、名前もわからないどこか遠くの国にいる飢えている人々のことかもしれません。困っている人や途方に暮れている人々のことかもしれません。色々な場合があるでしょう。けれども、わたしたちに対して手を伸ばしてくるそれらの人々に、手を伸ばすことすらできないそれらの人々に、自分という塩を分けてあげたいと思うのです。