宗教主任 石垣 雅子

聖書の言葉

そこで、ピラトがイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスは、「それはあなたが言っていることです」とお答えになった。

新約聖書 ルカによる福音書23章3節

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わたしにはいくつかの嫌いな言葉があります。そのうちの一つは「どうでもいい」という言葉です。何かの物事について、適当に済ませればいいとか、ただ何となく時間が過ぎ去っていけばいいとかそういうのが「どうでもいい」ということだと思います。関心がない。何とも感じないし、何も思わない。今こうやってわたしの話を聞いている皆さんの中にも、頭を下げて聞きたくない体勢に入っている人が見えます。既にもう「どうでもいい」のでしょう。
わたしたちの生きているこの社会は次第に生きにくい社会になっているのかもしれません。高校は卒業しようとか、とにかく大学には入ろうとか、就職したいとか、目先の目的に向かって歩んでいくことは可能です。でも、高校を卒業して、大学に入って、会社に就職して、一体その先に何があるのか。見えてきません。どうやら灰色かもしれません。そして、とりあえずの目的すら見出すことができず「どうでもいい」とつぶやきたくなってしまう人はたくさんいるのだろうと思います。わたし自身「どうでもいい」が嫌いでありながらも、仕方ないのかなあと考えてしまうことがあります。そう言いたくなる気持ちもわかならいでもないかなと思います。
一体どうすれば、「どうでもいい」ではない人生を送ることができるのでしょうか。意味ある自分の人生を、自分自身をかけがえないものとして大事にできる人生を送っていくことができるのでしょうか。このことについてはわたしもよく考えます。でも、はっきりとした答えは持っていません。
けれども、そのヒントは学校生活の中にあるのかもしれないと思うのです。物事をよく知り、よく考える、学ぶということの中にあるのかもしれないろ思っているのです。知ることも考えることも、学ぶということは面倒くさいことです。手間がかかることです。それでも、いい加減にしたりおろそかにしたりしてはいけないと思うのです。そこのところをなまけると、「どうでもいい」ウイルスが増殖してきて、「どうでもいい」病が進行してしまいます。手遅れになってはいけないと思います。

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さて、今週は受難週です。イエスが裁判を受け、十字架につけられて殺されるという週です。明日の金曜日がちょうどイエスが十字架につけられる受難日です。それで、今日の聖書は、イエスが裁判を受けている場面です。イエスはローマ総督ポンテオ・ピラトという人から尋問されています。ピラトは、「お前がユダヤ人の王なのか」とイエスに尋ねています。すると、イエスは「それはあなたが言っていることです」と答えます。この「それはあなたが言っていることです」という言葉は変な日本語ですね。「お前がそうなのか」に対してそうだともそうでないとも答えていない。「それはあなたが言っていることです」と語っています。会話が成立していません。
この言葉は、もともとの意味では「それは自分で考えなさい」という意味の言葉なのです。イエスがユダヤ人の王なのか、それとも民衆を惑わす革命家で死刑に値するのか、それとも罪がないので釈放すべきなのか、自分自身で考えて答えを出しなさいと言っているのです。イエスなる人物は一体誰であるのか自分で判断しなさいと言っているのです。ピラトにとってはイエスが誰であろうがそんなことは「どうでもいい」ことでした。揉め事が解決して、問題が丸くおさまってくれればそれでよかったのです。けれども、イエスはピラトに対して、「あなたはわたしを誰だと思っているのか、自分で考えなさい」と切り返しているのです。「どうでもいい」では済まないというのです。
わたしたちにとっても、様々なことが「どうでもいい」では済ませられないはずです。「自分で考えなければ」ならないことがたくさんあるはずです。面倒くさいこともあるでしょう。手間がかかることもあるでしょう。大変なこともあるかもしれません。でも、逃げないで色々なことに真剣に取り組んでいかなければならないと、これはわたし自身のことも含めてそう考えるのです。