宗教主任 石垣 雅子

聖書の言葉

だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。

新約聖書 マタイによる福音書25章29節

I

「あなたの長所と短所を教えて下さい」と言われたら、皆さんはどう答えるでしょうか。この質問は推薦入試の試験を受けた人なら一度は考えたことでしょう。よく聞かれる質問です。もしわたし自身が誰かに聞かれたらどう答えるでしょうか。考えてみました。「長所は、頑張り屋なところで何事にもあきらめないこと。短所は融通がきかなくて頑固なところです」とでも答えるのかなあと思います。皆さんはわたしをどのように評価してくれているのかわからないのですが、わたしは自分自身をそのように見ているわけです。この自己評価というのは、実はとても難しいものなのかもしれません。自分で自分を見る、そして評価するというのが自己評価です。
でも、わたしたちはどうやら長所よりも短所の方に目が向きがちなのです。自分のここが良いという評価よりも、あれがないこれが足りないと思いがちなのです。皆さんよりだいぶ大人なわたしでもそうなのですから、皆さんの年代ならなおさらのことだろうと思います。外見や容姿だって、「太っている/やせている」「身長が高い/低い」「顔が美しい/あまり美しくない」などなど、もっとこうであったならと足りないものに目が向いてしまいます。更に、能力や才能、運というようなものですら、「ナントカができる/できない」「ナントカがわかる/わからない」というようなことを考えてしまいます。「あの人にはアレがあるのに、それに比べて自分には何もない」と考えてしまいがちなのです。
残念なことにわたしたち人間は、一人の人間として生きているということについては平等です。少なくともわたしたちが生きているということについては平等だと思っています。それなのに、それ以外のものは平等ではないのです。色々なことにおいて持っているものが決して平等ではないのです。例えば、生命の長さは平等ではありません。長い人ももちろんいますが、惜しまれながら短い生命を終える人もたくさんいます。先にも述べましたが能力や才能や運というようなものも平等には与えられていないのです。そして、環境もそうです。劣悪な中で生きていかざるを得ない人もいるし、反対に恵まれた中で生きていける人もいます。だから、他人と比べてどうなのかということを考えてしまうわけです。そして、平等って一体どういうことなんだろうと考えてしまうわけです。

II

ことの発端は、主人が旅行に出かけるときに三人の僕(家来、使用人)を呼んで、自分の財産を預けるところからはじまります。このとき、主人は財産を三人に平等には預けませんでした。「それぞれの力に応じて、一人には5タラントン、一人には2タラントン、もう一人には1タラントン預けて旅に出た」というのです。「それぞれの力に応じて」預けた結果、不平等で不公平に預けることになったということです。ですから、当然のこととして5タラントン預けられた僕に一番力があり、その次が2タラントンの僕、そして一番力がないのが1タラントンの僕だということはおわかりになると思います。
ところで、タラントンというお金の単位ですが、莫大なお金のことです。1タラントンで6000デナリオンです。1デナリオンが労働者1日分の給料ですから1タラントンで6000日生きられるという計算になります。6000日ですから、16年と半年くらい生きられるわけです。1タラントンでさえも、それくらい莫大なお金だということを頭に入れておいて下さい。主人は莫大なお金、すなわち自分の財産を僕たちに預けたのです。それぞれの力に応じてです。この物語でつまずくポイントは何かと考えてみると、1タラントンというのが少ない金額のように思えるということではないかと思います。確かに、5タラントンや2タラントンに比べれば少ないです。それは確かです。でも、1タラントンは決して少額なお金ではありません。16年と半年くらい生きられる価値あるお金なのです。主人は僕たちを信頼していたからこそ預けたのだと思います。信頼していないのに預けられるような金額ではありません。
が、問題は、僕たちがそれぞれタラントンを預けられて、主人が旅行に出かけてしまったあとのことです。5タラントンと2タラントン預けられた僕はそれで商売して主人から預かったタラントンを倍にします。けれども、1タラントン預けられた僕は穴を掘って主人の金を隠しておいたというのです。当然のことですが、減りもしませんし増えもしません。ただ、この1タラントンは地面の中で眠っていただけです。そして、かなり時間が経過した後、旅行から主人が帰って来ます。そして僕たちと預けたタラントンの精算をするわけです。5タラントンと2タラントンの僕は、自分たちが預けられたタラントンを倍にしたことを報告し主人にほめられます。「忠実な良い僕だ。よくやった」と言われるわけです。
さて、問題の三人目の僕です。彼は土の中から掘り出してきた預けられた1タラントンを手に主人の前に進み出るのです。彼はこう言い訳をしています。「御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、恐ろしくなり」地面の中に埋めておいたのだ、と。主人が厳しい人だから失敗したらどうしようと思って、失敗したら許してもらえないだろうと思って何もしなかったと語るのです。
でも、これは言い訳です。自分が何もしなかったということを正当化しようとしているだけのことです。他の二人が5タラントン、2タラントンとたくさんのお金を預けてもらっているのに、自分には1タラントンしか預けてくれなかったからおもしろくなかったのでしょうか。あるいは、自分には1タラントン分しか力がないから何もしなくて良いと最初からあきらめてしまったのでしょうか。どっちにしても彼は預けられたタラントンを使ってみようとはしなかったのです。
ということは、この1タラントン預けられた僕は主人の期待や信頼を裏切ってしまったということになります。主人は彼を信頼して自分の財産を預けました。彼には1タラントンを用いるくらいの力はあっただろうと思います。何故なら、主人は僕たちの力に応じて預けたのですから。でも、彼はそれを用いる勇気がなかったのです。自分を賭けてみる勇気がなかったのです。失敗するよりは何もしない方がましだと、主人は怖い人だから怒られないようにしようと考えて預けられたタラントンを地面に埋めてしまうのです。ここに彼の大きな失敗があります。

III

しかし、この僕の姿はわたしたちの姿でもあります。わたしたちは、これがないあれがないと自分にないものを嘆きます。それに比べて、あの人はこれも持っているし、あれもあるとうらやましがります。そして、自分は大したものを持っていないから何もしなくて良いと思ってしまうことがあるのだと思います。皆さんはどうでしたか。やらなくて当然、しないのがあたり前になってしまったことがないでしょうか。やらない、しないでできるようになるわけがありません。持っている力は使わなければ失われていくばっかりなのです。それどころか、年と共に、どんどんできないことが増えていくに違いありません。
加えて、やらない、しないということは自分自身をも信頼しないことです。どうせできないから、どうせ失敗するからと言い訳し先回りしてしまうことです。この物語で言えば、主人は僕たちを信頼しています。期待しています。それなのに、1タラントン預けられた僕は主人の期待や信頼を裏切っただけではなく、自分自身で自分に期待せず、自分を信じず、 自分で限界を作り、自分の可能性を狭めてしまったのです。だから、主人は彼に対して「怠け者の悪い僕だ」と怒っているのではないでしょうか。何もやらなかった自分を正当化しようとすることを、言い訳しようとすることを許そうとはしないのではないでしょうか。
失敗しない人生はあり得ません。わたしたちは大きな失敗から小さな失敗まで幾度なく失敗を繰り返しながら生きています。当然後悔したくなります。リセットしたくもなるでしょう。でも、失敗することは悪いことなのでしょうか。一つも失敗しないで生きるように努めることがそんなに大事なことなのでしょうか。1タラントンの僕は、失敗したくないと考えた結果とった行動から、かえって主人から「怠け者の悪い僕だ」と怒られます。ということは、たとえ失敗しても、ここが勝負どころだと自分を賭けてみる必要があったということです。少なくても、自分に期待し自分を信頼してくれる人の思いを受けとめて、何か行動を起こしてみる必要があったということです。この1タラントンの僕にはそれができませんでした。自分自身を賭けてみる勇気がなかったのです。根性なしだったのです。自己評価が低かったのです。自分の長所よりも短所ばかりを意識してしまったのかもしれません。「どうせ自分なんて」と考えてしまったのかもしれません。
振り返って考えてみるとき、わたしたちもそのような思いに捕らわれることがあります。自分の価値を低く見積もって、「どうせ自分なんて」と考えてしまうことがあります。できないことを数えて、あれがないこれがないと考えてしまうことがあります。しかし、今日わたしたちは自分自身には少なくとも1タラントン与えられているのだということを教えられているのです。それは、何かができるからとか、特別な能力があるからとかそんなことではないのです。たとえ、どんな人間であろうとも、その手元に1タラントンはあるのだということです。神さまがわたしたちを信じて与えてくれた莫大なお金タラントン。わたしたちを信じてくれていること、期待してくれていることを思います。更に、わたしたちを信じてくれているのは何も神さまだけではありません。まわりにいる隣人と呼ぶ人々も同じ思いでわたしたちに接してくれているはずです。
できない、しないではなく生きていきましょう。できることを勇気を持ってしようとして生きていきましょう。ここぞというときには自分自身を賭けてみましょう。失敗するかもしれないけれど、やるべきことをやってみましょう。何故なら、わたしたちには少なくとも1タラントンが与えられているのですから。神さまからの信頼と期待、隣人たちからの信頼と期待に、それぞれの力に応じて応えていきたいと願っています。(2005年度卒業礼拝 2月27日)