宗教主任 石垣 雅子

聖書の言葉

兄弟たち、わたし自身は既に捕らえられたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後のものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。

新約聖書 フィリピの信徒への手紙3章13-14節

I

わたしたち人間には忘れようとしても忘れられない思い出があります。今、ここにいる3年生の皆さんはもうすぐ高校生活を終えようとしています。一番思い出に残っているのはどんな場面ですか?親友と共に過ごした時間だったり、初めてのデートだったりするのでしょうか。修学旅行で行った美しい景色やおいしいと思って食べた食事でしょうか。でも、その反対に、とても悲しい時間だったり、別れの場面だったりするのかもしれません。失敗したり、悔しい思いをしたり、涙を流したりしたことなのかもしれません。そういう記憶が積み重なってわたしたちの過去を作っているのだと思います。そして、その中から色々なことを経験的に学んでいき、少しずつ成長していくわけです。
人間は誰でもおぼえていることと忘れ去ることのバランスがとれているから良いんだという話を聞いたことがあります。毎日たくさんの出来事に出会って、それら全てのことをおぼえていたとしたなら、多分大変なことになってしまうことでしょう。頭がパンクしてしまうかもしれません。幸いなことに、わたしたちはたくさんの出来事の中、自分にとって意味あると思うこと、大事だと判断したことだけ記憶に残すのです。そして、ほとんどのことは時間と共に忘れ去っていきます。一年前の1月27日、自分が一体どういう一日を送ったかおぼえている人はいますか?ほとんどいないでしょう。でも、特別な一日、大学入試の日だとかそういう日のことは忘れられないという人は多いはずです。

II

忘れるということは悪いことのように考えられています。が、必ずしも悪いことだけではないようです。感じた心の痛みをずっとおぼえていたとしたら、わたしたちはその痛みに引きづられ一歩も動くことができなくなってしまうかもしれません。誰かを傷つけたことをずっとおぼえていたとしたなら、わたしたちはその苦しさにさいなまれて耐えられなくなってしまうかもしれません。誰かから許されたことをずっとおぼえていたとしたなら、わたしたちはその人に対する負い目だけを感じて卑屈になってしまうかもしれません。
忘れるということは解放されることでもあります。わたしたちを縛ろうとする過去から解き放たれて、未来へ目を向けるということです。もちろん解放されたいのに、どうしても忘れることのできないものがあることはわたし自身わかっています。折にふれて思い出され、わたし自身を苦しめたり悩ませたり痛めつけたりするのです。多くのものを背負い、引き受けながら生きていくことが大人になるということであるなら、忘れたい過去とは背負っている一番大きな荷物なのかもしれません。

III

今日の聖書を記したパウロは、前のものに全身を向けていくとき、一体何を忘れたいと願ったのでしょうか。おそらく過去のことを忘れたいと願ったのでしょう。けれども、彼は書いたものから判断する限り、そのことを決して忘れなかったように思えるのです。パウロがキリスト教徒を迫害した過去はどうあっても変えられない事実です。忘れていようがおぼえていようが、過去は変えようがないのです。ですから、とてもつらいことですが、忘れたとしても記憶の彼方に押しやったとしても過去から本当の意味で解放されることはないのです。過去は取り返しがつかないのです。
にもかかわらず、わたしたちは今生きています。多分これからも生きていけます。過去の重みに耐えかねて打ち倒されてしまうことはありません。何故なら、わたしたちには未来があるからです。可能性があるからです。希望があるからです。自ら、前のものに全身を向けているからなのです。
たとえ、忘れたいと思っても忘れられない様々な過去にさいなまれることがあったとしてもいいのです。それでも、わたしたちにはこれからの未来が、可能性が、希望が与えられているのです。過去と未来は現在でつながっています。果たして、わたしたちはこれから何をしようとしているのでしょうか。ひとりひとり、過去から学び、未来を見つめながら、今を現在を誠実に生きていきたいと願います。