宗教主任 石垣 雅子

聖書の言葉

イエスは言われた。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」ところが、女は答えて言った。「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」

新約聖書 マルコによる福音書7章27-28節

I

今読みました聖書は、わたしが以前から折りにふれてずっと考え続けていた物語です。ひとりの異邦人の女性がいて、その女性には「汚れた霊に取りつかれた幼い娘」がいたというのです。この女性は母親だったわけです。イエスのもとに来て、病気の自分の娘をいやして下さいと願ったのでしょう。イエス当時、病気になるというのは本人かその家族が何か罪を犯したせいだと考えられていたのです。難しい言葉でいうと「因果応報」といいます。そんな中で、イエスのうわさを聞きつけたひとりの女性がイエスのところに来るわけです。おそらく、イエスには病気をいやす力があるということを聞きつけてやって来たのでしょう。そして彼女は、自分の娘の病気をいやして下さいと願ったわけです。
けれども、イエスはそんな彼女の気持ちを打ち砕くかのごとくに冷たい言葉を言い放つのです。「子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」と。人の心を挫くような言葉です。自分はイスラエルの人々のために遣わされているのであって、お前のような異邦人のために遣わされているのではないのだと語っているのです。

II

わたしはこのイエスの態度にひっかかりを感じるわけです。このイエスの言葉はあまりにも思いやりの欠けた言葉だと思うからです。今とても困っている、途方に暮れている人がいるならば、どうしてすぐに助けてやらないのだろうと考えてしまいます。あまりにも冷たいではないかと少々怒りさえ感じます。けれども、イエスは最後には困っている彼女の娘をいやします。どうして、イエスの心の中に変化が起きたのでしょうか。何がイエスを変化させたのでしょうか。
わたしは、彼女がイエスの前にひたすらに立ち続けたからなのかもしれないと思うのです。彼女はあきらめないのです。イエスに拒否されたとしても、彼女はイエスの前に居続けようとするのです。あきらめず、退かないのです。そして、「こぼれたパン屑でいいから下さい」と願うのです。自分の娘のためにできることを尽くそうとするのです。イエスの前にひたすら立ち続けた女性の姿に、イエスは彼女の願いを聞き入れ、娘をいやすのではないでしょうか。
ただあきらめずにそこに立ち続けること。これをわたしたちの状況にあてはめてみると、今いるこの場所で、自らのやるべきことややりたいことを尽くすということなのだと思います。あきらめてしまえば何も得られないことが多いのです。まわりがどうだとか、誰それがこう言ったからなど、自分以外に責任を押しつけてしまいがちなわたしたちです。でも、まわりのせいにせず、あきらめてしまわず、自分自身の課題に向き合って立ち続けていたいと願います。