宗教主任 石垣 雅子

聖書の言葉

わたしたちは見えるものにではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。

新約聖書 コリントの信徒への手紙Ⅱ 4章18節

I

子どもの頃「悪いことをすれば誰も見ていなくても神さまが見ているのだ」と言われたことはないでしょうか。「だから、悪いことをしてはいけない」と教えられたわけです。この言葉はわたしたち人間がひとりで生きているのではなく、人間を超えた存在がおり、その存在がわたしたちを見つめているのだということを示しているように思います。自分勝手な生き方や、誰も見ている人がいないからといって悪いことをするというような行動はその存在の意志にかなっていない。だからそのようなことはすべきではないのだということになると思います。
キリスト教は、そして聖書は、そのような考え方を一歩進めたかたちで人間を超えた存在をとらえています。すなわち神という存在がいて、神はわたしたち人間に働きかけているのだと考えているのです。聖書とは、神の人間への働きかけ、神と人間との出会いをわたしたちに伝えるためにあるのだと思うのです。
しかし、だからといって、わたしたちの人生というのは神の意志によって決められていて、どうにもならないのだとかそういうことではありません。人の人生とは「運命」によって生まれたときから死ぬときまでどうなるか決まっているようなものではないのです。もし、そうだとしたら、わたしたちは「あきらめ」や「仕方なさ」の中で生きていくしかないことになってしまうでしょう。「どうせ何をやったって無駄だ」と考えてしまうような生活になってしまうことでしょう。そうではないのです。わたしたちの人生とは誰かによって支配されているものではなく、自分自身の力によって切り拓いていくべきものなのだし、そうしようとするわたしたちを支え導くのが神なのだと思うのです。だから、夢や希望や願いを持って、「こうなりたい」と思う目標を持って生きていかなければならないのだと思います。

II

そのように生きようとするとき、大事なポイントがあることを今日の聖書は教えてくれています。今日読んだ聖書はパウロがコリントの教会にあてた手紙の一部ですが、「わたしたちは見えるものにではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです」と記されています。見えるものにではなく、見えないものにこそ目を注ぐのだというのです。それは、見えないものが永遠に続くものであるからだというのです。わたしたち人間を「見えるもの」、そして人間を超えた存在を「見えないもの」ととらえることが一般的な読み方かもしれません。でも、少し広げて考えてみると、わたしたちが日頃気づかないでいる色々な事柄のことだって「見えないもの」と呼べるのではないでしょうか。
わたしたちは色々な事柄を見ていると思っています。知っていると思っています。わかっていると思っています。でも、本当のところ、わたしたちは何を見ているのでしょう。何を知っているのでしょう。どんなふうにわかっているのでしょう。そう問いかけられてみると、様々なことを見ていない自分、色々なことを知らない自分、何もわかっていない自分に気づくはずです。おそらく神という存在のことも同じです。わたしたちはその存在について知らないでいるのです。
見ていない、知らない、わかっていない。だからこそ、学校に来て勉強するのだし、色々なことを考えたり経験したりしなければならないのだろうと思います。そして、わたしたち人間は一生涯そうしながら人生を切り拓いていかなければならないのだとも思います。今日の聖書に語られている「見えるものにではなく、見えないものに目を注ぎ」続ける生活を目指したいと思います。聖書を読み進め学ぶ中から神という存在について考えを巡らしたいと思います。