宗教主任 石垣 雅子

聖書の言葉

命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、「わたしどもは取るに足らない僕です。しなければならないことをしただけです」と言いなさい。

新約聖書 ルカによる福音書17章9-10節

I

誰かから認めほめられることはうれしいことです。誰かが自分のことを高く評価してくれたり、ほめられたりするのは悪い気分ではありません。むしろ良い気持ちになるものです。自分が認めてもらえたと感じるとき、わたしたちは自分の存在理由をそこに見いだそうとします。「自分は他人にほめられるくらいの人間なんだ」と。誰かに認められ、誰かに必要とされ、喜びやうれしさを感じる。誰かから感謝されるとき、自分は良い人なんだと思う。他人を基準として自分の存在価値を見いだすわけです。
しかし、わたしたちは誰か他人のために生きているわけではありません。自分自身の人生を生きているはずなのです。それなのに、他人からどう見られているのかが気になる。中には、他人から評価されるのがあたり前になってしまうこともあるわけです。それがないと満足できない。そして、そこのところで逆に傷ついたり傷つけたりしてしまいます。人間というのはうらみがましい生き物であり、恩着せがましい生き物なのかもしれません。
今日読みました聖書は、イエスが語った話の一部分です。ある人に僕(しもべ)がいた。僕というのはその家の仕事をする召使いのことです。僕がその日の仕事から帰ってきた。その家の主人は帰ってきた僕に「夕食の用意をしてくれ」と言うのであって、一緒に夕食を食べようとは言わないだろうというのです。僕は主人から命じられた「しなければならないことをしただけ」であって、それは感謝されるようなことではないのだとイエスは語るわけです。それは当然のことであって、誰かから評価されたりほめられたりするようなことではないのだということです。

II

この話をわたしは長い間理解できずにいました。身分制度の社会の中で僕というのはそんな扱いだったのかなあと考えたりはしていましたが、深く考えようとはしませんでした。けれども、もしかしたらこんなことかと思い当たることがあります。弘前に来る以前、わたしは別な仕事をしていました。その仕事先にいたある方のことを思い出したのです。わたしの年齢が若かったこともあるのでしょう。何をするにつけ「偉いねえ」「良くできたねえ」とほめられるのです。最初のうちはいい気になって聞いていました。でも、そのうちに「ほめ殺しか?」と思うようになりました。わたしが仕事をするのは当然のことであってそれ以上でもそれ以下でもありません。それなのにその方はわたしのやることを何でもほめてくれる。何もできないはずのわたしが色々やっていると思われているのかもしれないと考えるようになったのです。
わたしたちが自分の場所にいて目の前にある事柄をやろうとするのは、それがわたしたち自身のやるべき事柄だからです。誰かに認められるためにでも、「偉いねえ」とほめてもらうためにやるのでもありません。当然のことだから、やらなければならないからやるのです。もちろん結果的には評価されたりほめられたりすることはあるかもしれませんが、それが第一の目的ではありません。
今日の聖書でイエスが言いたかったことは何なのだろうと考えるとき、そこのところに関係するように思えてなりません。謙遜しなさいというよりももっと単純なことだと思います。命じられたことをする。しなければならないことをする。それは誰かのためではなく、自分自身のためにです。それ以上でもそれ以下でもありません。他人からは感謝されないかもしれない。評価されたりはしないかもしれない。でも、神が望むのはわたしたちそれぞれがそれぞれのするべきことをやるということだと思うのです。他人の判断を自分の存在理由にするのではなく、自分自身で自分のことを決め、やるべきことをやろうとする。イエスが語った言葉を今日わたしはこのように受け取りました。